多聞山城 歴史 資料館
多聞山城の歴史
1560年(永禄3年)松永久秀が眉間寺山と呼ばれていた標高115メートルの山に築城しました。
1564年(永禄7年)飯盛山城で三好長慶が病死、三好政権は三好三人衆と松永久秀の連立政権という形で運営されますが、1565年(永禄7年)5月、三好三人衆、岩成友通、松永久通らによる足利義輝の暗殺(永禄の変)以降、三好三人衆と松永久秀の関係は次第に悪化し、同年11月には三好政権は分裂してしまいます。
三好三人衆は筒井順慶と同盟して松永久秀を攻撃し、1566年(永禄9年)6月、筒井城の戦いで久秀は筒井城を奪われ、多聞山城も攻撃されますが、1567年(永禄10年)10月、東大寺に布陣し大仏殿を要塞化した三好三人衆らを奇襲して勝利します。このとき大仏殿が焼失しました。
1572年(元亀3年)頃から松永久秀は信長包囲網に合わせて三好三人衆と共に織田信長と戦いますが、1573年(天正元年)12月、織田軍に多聞山城を包囲されて多聞山城を信長に差し出し降伏しました。
1574年(天正2年)3月、織田信長が多聞山城に入城し、同城の舞台にて正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を切り取り配下に観賞させました。1575年(天正3年)信長の家臣の塙直政(ばんなおまさ)が大和守護として入ります。塙直政は1576年(天正4年)石山本願寺攻めに参加して戦死します。1577年(天正5年)多聞山城は破壊され、建物や内装は京都の旧・二条城に移築され、石材は筒井城、郡山城に使用されました。
戦国時代 多聞山城周辺の勢力図
多聞山城周辺の勢力図(1561年)
松永久秀は斎藤道三、北条早雲、宇喜多直家らと並び戦国時代の梟雄として知られますが、茶人としても有名で、武野紹鴎に師事し堺の有力商人・茶人であった今井宗久、津田宗達らと茶会を開き、古天明平蜘蛛、九十九髪茄子などの名物(茶器)を所有していました。
多聞山城 縄張り 絵図
「ならめい志よゑづ」(奈良県立図書情報館所蔵)
幕末頃に出版された奈良の名所案内図。
東大寺の右に二月堂、右下に春日大社、左に興福寺、左下に猿沢池があり、興福寺には江戸時代1717年(享保2年)に大火災で焼失する前の金堂、講堂、南大門が描かれています。