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松本城 戦国武将


小笠原長棟

三階菱

1492年(延徳4年)-1542年(天文11年)。

信濃の大名小笠原氏の当主。信濃守護。

小笠原氏は林城を本城とし、深志城(後の松本城)は林城の支城として築かれました。

小笠原長棟は知略と武勇を兼ね備えた人物で、高遠頼継や諏訪頼重との戦いを優位に進め、小笠原氏の最盛期を築きました。


馬場信春

花菱

1514年(永正11年)-1575年(天正3年)。

武田四天王の一人。

1550年(天文19年)武田信玄による信濃侵攻で、小笠原氏の林城・深志城は落城し、馬場信春が深志城の城代となりました。

馬場信春は武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕え、川中島の戦い、駿河侵攻、三方ヶ原の戦いなど多くの合戦で武功を挙げた。生涯70回以上の戦いで傷を負わなかったため、不死身の鬼美濃と評された。1575年(天正3年)織田・徳川連合軍との長篠の戦いで討ち死にした。


木曽義昌

笹竜胆

1540年(天文9年)-1595年(文禄4年)。

信濃国木曾谷の国人領主木曾氏の第19代当主。木曽福島城を築いた木曾義康の嫡男。義昌の正室は武田信玄の三女の真理姫。武田家の親族衆として木曽谷を領有していた。

木曽義昌は武田信玄が亡くなった後、1582年(天正10年)武田勝頼から離反して織田信長の調略に応じた。このことが甲州征伐のきっかけになった。武田氏の滅亡後に、織田信長から深志城を与えられた。義昌は本能寺の変が起こるまでのわずかな間、松本・安曇野を新たな拠点とした。


小笠原貞慶

三階菱

1543年(天文15年)-1595年(文禄4年)。

小笠原長棟の孫。小笠原流弓馬術礼法宗家。

1550年(天文19年)武田信玄による信濃侵攻の後、小笠原長棟は三好長慶、織田信長、徳川家康に仕えた。 1582年(天正10年)本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、徳川家康に臣従していた小笠原貞慶が旧領を回復し、深志城を松本城と改名しました。


石川数正

丸竜胆

1533年(天文2年)-1592年(文禄元年)。

松本藩初代藩主。

徳川家の重臣で家康の懐刀と呼ばれた。徳川家康が幼少期に今川家の人質であった時から、石川数正は家康に仕えていた。

1562年(永禄5年)清洲同盟の成立に貢献。軍事において、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどで武功を挙げた。

1585年(天正13年)石川数正は家康の下から羽柴秀吉の下へ出奔した。原因は謎とされています。数正は徳川軍の軍事機密を知り尽くしていたため、徳川家には大きな痛手となりました。

1590年(天正18年)小田原征伐の後に、石川数正は豊臣秀吉より信濃国松本を与えられ、松本城の城主となりました。 数正は城を改修して天守閣を建造し、城下町を整備しました。


石川康長

丸竜胆

1554年(天文23年)-1643年(寛永19年)。

松本藩第2代藩主。石川数正の嫡男。

石川康長は父の数正の代から松本城の改修を引継ぎ、天守閣を完成させた。松本城は藩の石高に見合わないほど大きな規模であったため、康長は領民に過酷な賦役を課したと伝えられています。