松本城 歴史 資料館
松本城の歴史
深志(松本)城は、信濃守護の小笠原氏によって、1504-1520年(永正年間)に林城の支城として築城されます。
1550年(天文19年)武田信玄の信濃侵攻により林城・深志城は落城します。信玄は林城は破却し、深志城代として馬場信春を配置します。
1582年(天正10年)2月、武田氏滅亡後、城代の馬場昌房から織田長益に明け渡され、織田信長の命により木曽義昌の領地となる。
1582年(天正10年)6月、本能寺の変の後、甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が発生すると、信濃川中島四郡を支配する織田家の家臣である森長可は信濃を捨てて美濃の金山城へ退去する。越後の上杉景勝は空白となった北信地方へ進出し、このとき、上杉景勝の援助を得た小笠原洞雪斎が一時的に深志城を奪還するが上杉氏の傀儡であったため小笠原旧臣たちの支持を得ることができなかった。
1582年(天正10年)7月、小笠原旧臣たちは徳川家康の後援を受けていた小笠原貞慶を擁立し、貞慶は深志城を攻め落とした。 このとき、小笠原貞慶によって松本城に改名される。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の後、徳川家の関東移封が行われ、城主であった小笠原秀政も下総古河へと移り、代わりに石川数正が入城する。その後、石川数正とその子康長が天守を始め城郭・城下町の整備を行った。天主、乾小天主、渡櫓をはじめ御殿、黒門、太鼓門などは康長の代で造られました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで石川康長は東軍についたため所領を安堵されましたが、1613年(慶長18年)縁戚関係にあった大久保長安が死ぬと長安の不正蓄財事件のために改易されました。
戦国時代 松本城周辺の勢力図
武田氏が信濃に侵攻する前(1540年頃)
小笠原長棟は伊那に侵攻して高遠頼継、知久氏に勝利し、分裂していた小笠原氏を統一しました。
石川数正が松本城に入城した頃(1590年)
石川和正は徳川家康が今川家の人質であった頃から仕えていましたが、1585年(天正13年)家康のもとから出奔して豊臣秀吉の家臣となります。家康にとって徳川家の機密情報を秀吉に知られてしまう大きな痛手でした。
松本城 縄張り
「松本城 案内板より」