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伏見城 歴史 資料館


伏見城の歴史

1592年(文禄元年)豊臣秀吉は隠居所として伏見の指月に屋敷を築きました。翌年、豊臣秀頼が誕生すると将来を見据えて屋敷を伏見城へと改修し、1594年(文禄3年)に伏見城は完成しました。秀吉が伏見城を築城していた時期、1592-93年(天正20-文禄2年)は文禄の役で豊臣政権(総大将:宇喜多秀家)は李氏朝鮮と明の連合軍と戦っていました。
1596年(文禄5年)慶長伏見地震が発生し伏見城は倒壊します。この年、大地震が立て続けに起きたことで慶長に改元されました。
豊臣秀吉は指月の北東の木幡山に倒壊した城の資材を再利用して新たな城を築き直し、1597年(慶長2年)に新しい伏見城は完成します。1598年(慶長3年)豊臣秀吉は伏見城内で没しました。1597-98年(慶長2-3年)慶長の役で豊臣政権(総大将:小早川秀秋)は李氏朝鮮と明の連合軍と戦っていましたが秀吉の死によって終結します。
秀吉の築城した伏見城は豪華絢爛な外観であったそうですが、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見城の戦いで焼失してしまいました。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は1602年(慶長7年)藤堂高虎を普請奉行に起用して伏見城を再建しました。
1603年(慶長8年)徳川家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式が行われました。
1605年(慶長10年)徳川家康は伏見城で朝鮮使節と会見して李氏朝鮮と和議を成立させました。
伏見城は徳川氏の居館用、二条城は将軍参内時の宿舎として利用されましたが、1615年(慶長20年)一国一城令が制定され、1623年(元和9年)徳川家光の将軍宣下の後に伏見城は廃城となりました。

戦国時代 伏見城周辺の勢力図

大坂夏の陣前の伏見城周辺の勢力図(1615年)
伏見城_1615年
江戸幕府の初期の段階において徳川家康は伏見城に滞在していた期間が多くあったそうで、徳川政権において伏見城は重要な城であったようです。

伏見城 縄張り

伏見城_縄張り
〔日本古城絵図〕畿内之部.2 伏見城
「国立国会図書館デジタルコレクションより」