大和郡山城 歴史 資料館
大和郡山城の歴史
郡山城は郡山衆とよばれる土豪たちが1162年(応保2年)に雁陣之城を築いたことが始まりです。
1559年(永禄2年)三好長慶の家宰であった松永久秀が大和国に攻め入ると、当時郡山城の城主であった郡山辰巳は筒井氏から離反して松永久秀に属しました。
1565年(永禄7年)5月、三好三人衆、岩成友通、松永久通らによる足利義輝の暗殺(永禄の変)以降、三好三人衆と松永久秀の関係は次第に悪化すると、筒井順慶は三好三人衆と同盟して、1566年(永禄9年)6月、筒井城の戦いで筒井城を奪い返しました。
1568年(永禄11年)松永久秀は三好三人衆と筒井順慶の連合軍に攻められて信貴山城が落城しますが、久秀は上洛した信長に従属して援軍を得ることに成功し、信貴山城、筒井城を奪い返します。筒井順慶は郡山城を拠点にして松永久秀と戦いました。
1571年(元亀2年)辰市城の合戦で筒井順慶は松永久秀に勝利し、順慶は明智光秀の仲介で織田信長に臣従します。大和での松永氏の勢力は弱体化し、筒井順慶は郡山城と筒井城を領有しました。
1580年(天正8年)8月に織田信長の破城令により筒井順慶は筒井城を破棄して郡山城を居城としました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉は大和国を豊臣秀長の領地とし、秀長は郡山城に入城し筒井氏は伊賀上野へ転封となります。秀長は郡山城を大規模に改修しました。当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏、地蔵まで用いられました。
1591年(天正13年)豊臣秀長は大和郡山城で病死し婿養子の豊臣秀保が家督を継ぎます。わずか4年後の1595年(文禄4年)豊臣秀保が亡くなり、増田長盛が大和郡山城の城主となります。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍の中心人物であった増田長盛は改易となり高野山に預けられました。
戦国時代 大和郡山城周辺の勢力図
大和郡山城周辺の勢力図(1575年)
筒井順慶は明智光秀と親戚関係にありました。山崎の戦いで光秀からの援軍要請を受けた順慶が戦いの形勢をうかがい兵を動かさなかったことから生まれた日和見主義を表すことわざの"洞ヶ峠をきめ込む"の洞ヶ峠は、 京田辺の北西の京都と大阪の境にありました。
大和郡山城 縄張り 絵図
〔正保城絵図〕和州郡山城絵図(わしゅうこおりやまじょうえず)
「国立公文書館デジタルアーカイブより」
大和郡山城は増田長盛の時代に内堀、中堀、外堀の三重の堀に囲まれた城下町を取り込んだ惣構えの城郭となりました。
本丸の北に天守台があり、本丸とその東側の二の丸の毘沙門曲輪をつなぐ橋は現在、極楽橋として再建されています。二の丸の毘沙門曲輪の北側に追手門(梅林門)、追手向櫓があります