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川越城 歴史 資料館


川越城の歴史

扇谷上杉氏の上杉持朝は古河公方(足利成氏)の勢力(古河城、関宿城、忍城など)に対抗するため、享徳の乱の際の、1457年(長禄元年)家宰の太田道真、太田道灌に河越城(川越城)の築城を命じ、持朝が自ら城主となりました。

上杉持朝は太田道灌に江戸城も築城させて道灌を城主として、河越城と江戸城を防衛線として古河公方に対抗しました。

1483年(文明14年)山内上杉氏(上杉顕定)、扇谷上杉氏(上杉定正)と古河公方(足利成氏)は和睦し享徳の乱は終結しましたが、太田道灌の名声を恐れた主君の上杉定正は道灌を暗殺してしまいます。このことがきっかけとなり、太田氏は扇谷上杉氏を離反し、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内部分裂と抗争が繰り返され、古河公方が介入し、1487-1505年(長享元年-永正2年)長享の乱が起こり、両上杉氏は衰退しました。

関東が混乱している隙をついて、北条早雲は伊豆、相模を制圧しました。早雲から家督を継いだ北条氏綱は武蔵へ侵攻し、1524年(大永4年)に扇谷上杉氏(上杉朝興)の江戸城を、翌年、扇谷上杉氏家臣の太田資顕の岩槻城を奪いました。

1537年(天文6年)上杉朝興(扇谷上杉氏)が亡くなり上杉朝定が若くして家督を継ぐと、北条氏綱はそれに乗じて河越城を攻略しました。 上杉朝定は松山城へのがれ、河越城は北条氏の武蔵支配の拠点となりました。

1541年(天文10年)北条氏綱が亡くなり北条氏康が家督を継ぐと、上杉朝定は河越城奪回のため、それまで敵対してきた足利晴氏(古河公方)、上杉憲政(山内上杉氏・関東管領)と連合し、1545年(天文14年)10月から8万の大軍で河越城を包囲しました。また、今川義元、武田信玄も駿河と武蔵でほぼ同時に北条氏に対して軍事行動に出ました。

北条綱成は半年間篭城し援軍を待ちました。1546年(天文15年)4月、今川氏との戦いを終えて救援にかけつけてた北条氏康との夜襲によって連合軍を撃退しました。

1589年(天正17年)2月、北条氏直の家臣の板部岡江雪斎が上洛し、豊臣秀吉は北条氏が従属の条件としていた沼田領の裁定を行いましたが、同年10月、北条氏邦の家臣であった沼田城城代の猪俣邦憲が真田昌之の領地であった名胡桃城を奪うとい事件が発生し、豊臣秀吉は小田原征伐を開始します。

1590年(天正18年)4月、河越城の城代であった宿老の大道寺政繁は上野国まで出陣して秀吉の北方軍(上杉景勝、前田利家、真田昌之ら)を迎え撃つが松井田城にて兵糧攻めにされ4月末に降伏しました。 河越城も松井田城で大道寺政繁が降伏したことを受けて降伏開城しました。

1590年(天正18年)4月、秀吉の命により徳川家康が関東に移封すると、徳川氏の譜代家臣の酒井重忠が川越藩の初代藩主となりました。


戦国時代 川越城周辺の勢力図

河越城の戦い直前の勢力図(1546年)

川越城_1546年

北条綱成は半年におよぶ籠城戦を耐え抜きます。 北条綱成のトレードマークである地黄八幡の旗指物は松代の真田宝物館に現存するそうです。

松代城 周辺の観光情報

川越城 縄張り

川越城_縄張り

〔日本古城絵図〕東海道之部(5).80 武州河越城図

「国立国会図書館デジタルコレクションより」

川越城_本丸御殿_現地案内板

川越城 本丸御殿 現地案内板より