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高取城 歴史 資料館


高取城の歴史

南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が1332年(元弘2年)に築城したと伝えられています。

越智氏は南朝方で北朝方の一乗院衆徒の筒井氏と激しく争っていました。北朝が勝利すると筒井氏は室町幕府の支持を得て大和北部に安定した勢力を持つようになります。

室町時代1429年(正長2年)興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立に端を発した大和永享の乱が起こり、大和国全体に戦いが広がりました。

越智氏は豊田氏を援助し、井戸氏を援助した筒井氏らに勝利しましたが、筒井氏の訴えにより将軍の足利義教は越智氏を討伐して越智氏は大和南部に没落しました。

1467-77年(応仁元年-文明9年)応仁の乱では、越智氏(越智家栄)は東軍の畠山義就に味方して一時的に大和国での勢力を奪いました。

1532年(天文元年)室町幕府管領の細川晴元は山科本願寺の証如の援軍(一向一揆)を得て飯盛山城の戦いでを攻めて畠山義堯、三好元長に勝利しますが、一向一揆の蜂起は収まらず法華宗以外の仏教宗派を追放するために大和国にも侵攻しました。興福寺派の筒井順昭と越智氏は対立関係にありましたが、興福寺の僧兵たちが高取城に庇護を求めてきたため、高取城も一向一揆に包囲され激戦になりました。

織田信長の勢力が大和に及ぶと、1571-2年(元亀2年)頃、越智家増は織田信長に臣従したようです。

1580年(天正8年)織田信長によって大和国の城は郡山城のみとされたため、高取城は一時廃城となりました。

1583年(天正11年)筒井順慶の配下となっていた越智頼秀が亡くなり越智氏は滅亡しました。

1585年(天正13年)豊臣秀吉は大和国を豊臣秀長の領地とし、秀長は郡山城に入城し筒井氏は伊賀上野へ転封となります。高取城は家臣の本多利久に与えられ、利久は本丸に多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸に大名屋敷を造営しました。


高取城 縄張り

高取城_縄張り

「大和国高市郡高取城之図」(奈良県立図書情報館所蔵)

高取城は大規模な山城で、三重櫓が6棟、二重櫓が7棟あり、姫路城に似た外観であったと推測されています。本丸付近を拡大した絵図には、天守の横に小天守があり三重櫓が4棟あることが確認できます。

1640年(寛永17年)植村家政が高取城の城主となって以降、植村氏が徳川家の譜代の家臣であったため、江戸幕府から石垣や城郭の修築を許可されていたそうです。

高取城_縄張り_拡大