高遠城 歴史 資料館

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高遠城の歴史

高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継の居城であった。高遠氏は甲斐国守護の武田氏と同盟関係にあったが、諏訪の領有を巡り武田氏と対立する。
1545年(天文14年)4月に武田氏は高遠城攻めを行い、伊那地方への進出拠点とした。
1547年(天文16年)に山本勘助や秋山信友により大規模な改築が行われ、1556年(弘治2年)に秋山信友が城主となる。
1562年(永禄5年)に諏訪氏の娘を母とする武田勝頼が諏訪氏を継承し高遠城主となった。
高遠城は領国を接する織田・徳川氏に対抗するための重要な軍事拠点となる。長篠の戦いでの敗退後、1581年(天正9年)に武田勝頼は異母弟である仁科盛信を高遠城主とした。
1582年(天正10年)2月に織田信忠は5万の大軍で高遠城を攻めた。高遠城に籠もる仁科盛信は織田信忠の降伏勧告を退けて、わずか3千の守備兵で抗戦するが、守備隊は玉砕し仁科盛信は戦死し城は落城した。
1582年(天正10年)6月に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生。諏訪氏の一族であった藤沢頼親が復帰し、徳川家康が送り込んだ小笠原貞慶ら信濃国衆らと、1582年(天正10年)7月に高遠城を奪還し、徳川家康へ臣従した。その後は家康方の保科正直が高遠城主となる。
江戸時代になると高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏・内藤氏と城主が交代し、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新(1868年10月)を迎えた。

戦国時代 高遠城周辺の勢力図

武田氏が伊那地方に侵攻する前(1540年頃)
武田信虎は天文10年(1541年)6月、娘婿の今川義元に会うため駿河に赴いたところ、武田信玄によって甲駿国境を封鎖され、駿河に追放されてしまう。
武田信玄は1542年 上原城(諏訪頼重)、1545年 高遠城(高遠頼継)、1550年 林城・深志城(小笠原長時)、1554年 飯田城(坂西氏)を占拠した。1555年 木曽氏は降伏し、武田信玄は三女の真理姫を木曽義昌に娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。
高遠城_1540年_武田信玄の伊那侵攻_勢力図

織田氏の甲州征伐が始まった高遠城の戦い前(1582年2月初め)
1575年 長篠の戦い以降、武田家は衰退し1582年1月 織田氏の調略に応じて木曽義昌は武田勝頼から離反する。同じ時期に武田勝頼は新府城を築城し、仁科盛信を高遠城の城主とする。深志城の馬場昌房は武田家の譜代家老であった馬場信春の嫡男。飯田城の保科正俊は"戦国の三弾正"に数えられ、高坂昌信の"逃げ弾正"、真田幸隆の"攻め弾正"に対して"槍弾正"と称された。高嶋城の今福昌和は武田信玄、武田勝頼に仕えた侍大将。
高遠城_1582年2月_織田信忠の甲州征伐_勢力図

本能寺の変の前(1582年5月頃)
高遠城_1582年5月_本能寺の変の直前_勢力図

天正壬午の乱の直後(1582年11月頃)
高遠城_1582年11月_天正壬午の乱の直後_勢力図
天正壬午の乱以降、保科正俊、保科正直は徳川氏に仕える。保科正直は1585年(天正13年)に真田昌幸の拠る上田城攻めに従軍して活躍し、家康の異父妹久松松平氏と縁戚となって勢力を伸ばした。

高遠城 縄張り

高遠城_縄張り1
正保城絵図 信州高遠城之絵図 正保元年(1644年)
「国立公文書館デジタルアーカイブより」
北側の川が藤沢川、南側の川が三峰川。高遠湖(高遠ダム)は当然描かれていません。
二の丸と三の丸には侍屋敷。二の丸の西側に山本勘助が縄張りをしたとに由来する勘助曲輪。
城の西側には侍屋敷、町屋敷、足軽屋敷、建福寺、満光寺。
城の東側には侍屋敷、足軽屋敷、中間屋敷、桂泉院、西龍寺?。

高遠城_縄張り2
日本古城絵図 東山道之部 信州高遠城図 〔江戸中期−末期〕
「国立国会図書館デジタルコレクションより」


関東・甲信越の城↑

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