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信貴山城 歴史 資料館


信貴山城の歴史

1536年(天文五年)河内国守護の畠山在氏の家臣であった木沢長政によって築城されました。

1560年(永禄3年)大和国に進行した三好長慶の家宰であった松永久秀は、信貴山城を大和国支配の軍事拠点としました。

1568年(永禄11年)三好三人衆と筒井順慶の連合軍に攻められ信貴山城は落城します。久秀は上洛した信長に従属して佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の援軍を得ることに成功し、わずか4か月後には信貴山城を奪い返しました。

1571年(元亀2年)辰市城の合戦で松永久秀は筒井順慶に敗れ、大和での松永氏の勢力は弱体化します。

1572年(元亀3年)頃から松永久秀は信長包囲網に合わせて三好三人衆と共に織田信長と戦いますが、翌年、織田軍に多聞山城を包囲されて多聞山城を信長に差し出し降伏しました。

その後、松永久秀は佐久間信盛の与力として石山合戦に参加しますが、1577年(天正5年)勝手に離脱して信貴山城に籠城します(信貴山城の戦い)。久秀は信長の使者にも会おうともせず、織田信忠に城を包囲されると、自ら天守櫓に火を放って自害しました。信長が手に入れたがっていた平蜘蛛の釜はこの時に破壊され焼失しました。そして信貴山城は廃城となりました。


戦国時代 信貴山城周辺の勢力図

信貴山城周辺の勢力図(1575年)

信貴山城_1575年

1577年(天正5年)松永久秀は織田信忠の大軍に包囲され信貴山城で籠城します。久秀は石山本願寺の顕如に援軍を要請しますが、援軍要請の使者を努めた森好久(筒井順慶の元家臣)が織田軍へ寝返り、信貴山城は落城しました。


信貴山城 縄張り 絵図

大和国信貴山絵図

「大和国信貴山絵図」(奈良県立図書情報館所蔵)

1880年(明治13年)に出版された信貴山寺の境内図。

1577年(天正5年)信貴山城の戦いで多くの建物が焼失しました。

1602年(慶長7年)豊臣秀頼が片桐且元を奉行として信貴山寺を再建させました。