大阪城 歴史 資料館
大阪城の歴史
1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が石山本願寺跡に築城しました。
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が死去すると豊臣秀頼が家督を継いで大阪城を居城としました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)が敗れた後も豊臣秀頼が大阪城を居城としました。
1603年(慶長8年)徳川家康が征夷大将軍となり江戸城を天下普請により拡張して江戸幕府の構築を進めると、次第に豊臣家の影響力は弱くなっていきました。
1614年(慶長19年)方広寺鐘銘事件(京都方広寺の梵鐘に刻まれた"国家安康","君臣豊楽")がきっかけとなった大坂冬の陣で、豊臣方は大坂城に9万の軍勢で籠城し、徳川軍は20万の大軍で包囲しますが兵糧不足に陥り、和平交渉が結ばれました。講和によって、大坂城の外堀は埋め立てられ二の丸と三の丸は破壊されて、内堀と本丸のみが残されました。
大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)は大坂城平野口の南に真田丸(出城・曲輪)を構築して徳川軍を撃退しました。
1615年(慶長20年)豊臣方の牢人達の処遇に関する問題が発生して、再び大阪城は徳川家康に攻撃されて落城し、豊臣秀頼と淀殿は籾蔵の中で自害ししました。
大坂夏の陣での天王寺・岡山合戦では、豊臣方の真田隊・毛利隊などの突撃により徳川軍に多くの死傷者が出て、徳川家康・秀忠の本陣が混乱に陥りました。
大坂の陣の後、大阪城は徳川家康の外孫の松平忠明に与えられました。1619年(元和5年)松平忠明が大和郡山城に移封となると、大坂城は天領(幕府直轄)となり1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて2代将軍の徳川秀忠によって大規模な改修が行われました。
戦国時代 大阪城周辺の勢力図
大坂冬の陣前の大阪城周辺の勢力図(1615年)
1598年(慶長3年)豊臣秀吉が死去したとき秀頼はわずか6歳でした。加藤清正、福島正則ら武断派と石田三成、小西行長らによる文治派の対立が表面化し、翌年には後見人であった前田利家も死去して、豊臣政権の力は弱まり、次第に徳川家康が政権を掌握していきます。
大阪城 縄張り
「大坂城 現地案内板より」
1583年(天正11年)豊臣秀吉は浅野長政を普請総奉行に、縄張りを黒田官兵衛に命じて大阪城の築城を開始しました。