二条城 歴史 資料館
二条城の歴史
1565年(永禄8年)足利義輝は幕府の重鎮であった斯波氏(管領)の屋敷跡に堀や堅固な門を備えた城館を築きました。斯波氏の職名が武衛であったため二条御所武衛陣の御構えとも呼ばれます。二条御所の完成間際に、三好三人衆らの襲撃を受けて足利義輝は殺害されます(永禄の変)。
1568年(永禄11年)足利義昭(義輝の弟)は織田信長の武力を後ろ盾として上洛し六条本圀寺を居所とますが、翌年、三好三人衆による襲撃を受け(本圀寺の変)京都にいた信長家臣団が撃退しました。信長は義昭を守護するための城が必要であると考えて義輝の二条御所の跡地を中心に二重の堀と三重の天守を備えた二条城を築城しました。
その後、義昭と信長の関係が悪化、義昭は信長に対して1573年(天正元年)3月に二条城で挙兵、7月に宇治の槇島城で挙兵(槇島城の戦い)しますが敗北し畿内から追放され、室町幕府は終焉します。二条城は織田軍によって解体されました。
1576年(天正4年)織田信長は公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入り、上洛した時の宿舎とするため二条邸を譲り受けて二条新御所を建造しました。信長は2年ほど居住した後に皇太子の誠仁親王に二条新御所を献上しました。
1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、織田信忠(信長の嫡男)は宿泊していた妙覚寺から二条新御所に移り籠城しますが明智光秀に敗れ討ち死にし、二条新御所は焼け落ちました。
1603年(慶長8年)徳川家康は天皇の住む京都御所の守護と上洛の際の宿泊所として二条城を築城しました。
戦国時代 二条城周辺の勢力図
本能寺の変の一年前 二条城周辺の勢力図(1581年)
1581年頃、羽柴秀吉は因幡の鳥取城を攻略、光秀は丹波・丹後を平定した後で細川藤孝や筒井順慶ら寄騎の領地を合わせると240万石に達していました。
二条城 縄張り
〔日本古城絵図〕畿内之部.4 二条御城
「国立国会図書館デジタルコレクションより」