上田城 歴史 資料館

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上田城の歴史

真田昌幸は武田信玄の家臣として小田原攻め、駿河侵攻、西上作戦に参加しました。1573年(元亀4年)信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えます。
1574年(天正2年)真田幸隆が死去し、家督を真田信綱が継ぎますが、1575年(天正3年)長篠の戦いで信綱と次兄の昌輝が戦死したため昌幸が家督を継ぐことになります。昌幸も長篠の戦いに参加しましたが武田勝頼の旗本衆として参加していたために生き残ったといわれています。
真田昌幸は真田本城と支城の戸石城を拠点として活動しました。武田勝頼から沼田城の攻略を命じられ、1579年(天正7年)北条氏に対抗するために名胡桃城を築き、1580年(天正8年)調略により昌幸の叔父の矢沢頼綱が沼田城を攻め無血開城させました。
1582年(天正10年)3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐で武田氏は滅亡します。昌幸は岩櫃城で武田勝頼を迎える準備をいていたといわれています。同年6月、本能寺の変で信長が横死すると、武田領を巡り徳川、上杉、北条らによる争奪戦がおこり(天正壬午の乱)、昌幸は臣従と離反を繰り返して生き残りに成功します。
1583年(天正11年)このころ真田昌幸は徳川家康に臣従しており、家康の命により援助を得て上田城を築きました。
1585年(天正13年)真田昌幸は家康に沼田領を北条氏に引き渡すように命じられますが拒否したため、徳川軍(鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉)が上田城に侵攻します(第一次上田合戦)。昌幸は上杉景勝からの援軍を得ることに成功し徳川軍を撃退します。このとき真田信之は戸石城に籠城しました。
豊臣政権下で真田昌幸は秀吉に臣従し、次男の信繁(幸村)は人質として大坂に出仕します。1589年(天正17年)昌幸は家康と和睦し、真田家は徳川家の与力となります。家康は信之を高く評価し駿府城に出仕させ本多忠勝の娘の小松姫を娶らせました。1590年(天正18年)小田原征伐で戦功を挙げた信之は沼田城主となります。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで真田昌幸と信繁は西軍側につき上田城は徳川軍(徳川秀忠、榊原康政、真田信之)に攻撃されます(第二次上田合戦)。信之は信繁が籠城する戸石城を攻めますが真田家同士の戦いを避けるために開城の使者を送り開城させます。徳川秀忠は真田軍に撃退、足止めされ関ヶ原の戦いに遅参し本戦には参加できませんでした。
関が原の戦いの後、真田昌幸は紀伊国の九度山に配流され、1601年に上田城は徳川軍に破却され堀も埋められました。
江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ、真田信之が城下町を整備します。1622年(元和8年)9月、真田信之は松代へ転封となり、仙石忠政が城主となります。
1626年(寛永3年)から仙石忠政により上田城の普請を行いますが、1628年(寛永5年)忠政は病没し上田城の普請は中断されます。
1706年(宝永3年)仙石政明にかわり松平忠周が城主となり、以降、松平氏が上田藩を統治し明治維新を迎えます。

戦国時代 上田城周辺の勢力図

上田城の築城当時(1583年)
上田城_1583年_築城当時

上田城 縄張り

上田城_縄張り1
正保城絵図 信州上田城絵図 正保元年(1644年)
「国立公文書館デジタルアーカイブより」

上田城_縄張り2
日本古城絵図 東山道之部 信州上田城図 〔江戸中期−末期〕
「国立国会図書館デジタルコレクションより」


関東・甲信越の城↑

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