高島城 歴史 資料館
高島城の歴史
高島城の築城 諏訪氏の居城
1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)、豊臣政権下に日根野高吉(日根野弘就の子)が築城。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍に従い功績をあげた諏訪頼水(諏訪頼忠の子)が藩主となった。 以降270年間、高島城は諏訪氏の居城となる。
松平忠輝の諏訪家お預け
徳川家康の六男であった松平忠輝は、兄の秀忠から大坂夏の陣での遅参などを理由に改易を命じられて流罪とされ、寛永3年(1626年)4月に信濃国諏訪藩初代藩主・諏訪頼水に預けられた。諏訪頼水は松平忠輝を監禁するために南之丸を増設した。
吉良義周の諏訪家お預け
赤穂浪士による吉良邸討ち入り後、元禄16年2月4日(1703年3月20日)浪士に切腹が命じられ、喧嘩両成敗の形で吉良家には改易の命が下されて領地没収・家名断絶となった。吉良家を継いだ吉良義周は信濃国諏訪藩4代藩主・諏訪忠虎へのお預けを言い渡され高島城の南之丸に幽閉された。
日根野頭形兜
日根野高吉の父である日根野弘就は鎧や兜を多く自作し、鉄砲に対する防御力に優れた日根野頭形兜(ひねのずなりかぶと)を作成したことで有名です。日根野頭形兜は戦国後期に流行し、徳川家康、真田幸村、井伊直政、立花宗茂らが独自の装飾を施して使用しました。
戦国時代 諏訪高島城周辺の勢力図
文禄の役 豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年頃)
海津城は本能寺の変(1582年6月21日)の後、捨て置かれ城主不在であったが、信濃へと侵入した上杉氏の支配となった。
豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)の後、松本城には石川数正が入城し、数正とその子康長が城郭・城下町の整備を行なった。高遠城と飯田城は再び毛利秀頼の領地となる。 加藤光泰は山中城を攻略した軍功により甲斐国24万石を与えられ甲府城に入城した。
仙石秀久は九州征伐で秀吉の命令を順守せず独断で会戦に望んだ上で敗北した罪で改易され、秀久自身は高野山追放されていたが、小田原征伐に三男・仙石忠政と20名の旧臣らと浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じ、伊豆山中城攻めで先陣を務めて武功を挙げて秀吉の赦免を得て小諸城を与えられた。
関が原の戦い(1600年10月)
森忠政は、慶長3年(1598年)に秀吉が死亡すると徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)3月に希望していた信濃国川中島(海津城)へ転封となった。
石川数正は文禄2年(1593年)死去し、家督を康長が継いだ。
日根野高吉は関ヶ原の戦い直前の6月に急死し、家督を吉明が継いだ。
毛利秀頼は文禄2年(1593年)死去し、遺領10万石の内の1万石だけが長男の秀秋に与えられ、大部分は秀頼の娘婿の京極高知(淀殿の従弟)が継ぐこととなった。
加藤光泰は文禄2年(1593年)9月に文禄の役の陣中で病死し、甲斐(甲府城)は浅野長政、幸長親子に与えられた。
西軍についた真田昌幸は第二次上田合戦で東軍別動隊の徳川秀忠軍を撃退した。