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忍城 歴史 資料館


忍城の歴史

武蔵の国人領主であった成田正等は関東管領山内上杉家に従っていましたが、享徳の乱の時に上杉定正を裏切って古河公方(足利成氏)に寝返りました。成田正等は1478年(文明10年)ごろ、扇谷上杉家(上杉定正)に属する忍氏を滅ぼして忍城を築城しました。

成田正等は関東管領(山内上杉家、上杉上杉顕定)に対して反乱を起こした長尾春景に加担し、長尾春景が敗退すると扇谷上杉家(上杉定正)に忍城を攻められますが、同家の家宰の太田道灌の仲介によって和解し、忍城は成田氏が領有することとなりました。このとき、景春と対立関係にあった長尾忠景の子の顕泰を養子に迎えました。

1545年(天文14年)河越城の戦いで上杉憲政(山内上杉家・関東管領)、上杉朝定(扇谷上杉家)、足利晴氏(古河公方)の連合軍が北条氏康に敗退すると、成田長泰は北条氏康に臣従しました。

1560年(永禄3年)上杉謙信が北条氏康を討伐するため越後から三国峠を越えて関東に出陣すると、成田長泰は上杉謙信に臣従しましたが、小田原城の戦いが終わり、鎌倉府の鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督と関東管領職を相続すると、北条氏康に降伏して家臣となりました。成田長泰が北条氏に寝返った理由として、関東管領の就任式で長泰が下馬をしなかったことで謙信に扇で烏帽子を打ち落とされるという恥辱を受けたことが原因ではないかといわれています。

1563年(永禄6年)成田長泰は上杉謙信に忍城を攻められて降伏し家督を嫡男の成田氏長に譲りました。

1590年(天正18年)豊臣秀吉の関東平定の際、城主の成田氏長は小田原城に籠城し、叔父である成田泰季が忍城に籠城しました。忍城攻め総大将の石田三成は総延長28キロメートルにおよぶ石田堤を建設して利根川を利用した水攻めを行いましたが忍城は落城せず、小田原城の落城後に開城しました。


戦国時代 忍城周辺の勢力図

忍城周辺の勢力図(1545年)
忍城_1545年

成田長泰は1545年(天文14年)4月、父の親泰が死去して家督を継ぎます。同年9月に河越城の戦いが始まりました。


忍城 縄張り

忍城_縄張り

現地案内板 忍城今昔地図より。