古河城 歴史 資料館
古河城の歴史
平安時代末期から鎌倉時代初期に、源頼朝の家臣であった下河辺行平が古河に築いた館が古河城の起源であるといわれています。
南北朝時代(1336-92年)には北朝の足利氏の拠点でした。
1349年(貞和5年)室町幕府は関東を統治するために鎌倉に鎌倉府を設置しました。 鎌倉府は鎌倉公方と補佐役の関東管領、諸国の守護らで構成されました。初代の鎌倉公方は足利尊氏の四男であった足利基氏です。
鎌倉公方は幕府から独立した行動をとるようになり、幕府と対立していきます。 1438年(永享10年)永享の乱が起こり、翌年、第6代将軍足利義政、関東管領上杉憲実により第4代鎌倉公方足利持氏は討たれ、鎌倉府が滅亡します。 関東の豪族は幕府と所領を拡大した上杉氏に反発していきます。
1447年(文安4年)幕府は足利持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望を受け入れ、足利持氏の遺児であった足利成氏を第5代鎌倉公方にします。
1455年(享徳3年)享徳の乱が起こり、足利成氏、里見氏、武田氏等は、関東管領の上杉憲忠、宰相の長尾実景・憲景親子を殺害します。足利成氏は関東各地を転戦している間に本拠地の鎌倉を駿河守護の今川範忠に占拠され、鎌倉に戻ることを断念して古河城に入城して本拠地とし、足利成氏は初代古河公方となります。
1483年(文明14年)幕府と足利成氏が和睦し享徳の乱が終焉すると、関東の勢力は大きく四つに分断されました。
■古河公方(足利成氏)方の勢力
[下野(宇都宮成綱、小山成長)、常陸(佐竹義治、結城政朝、小田氏)、下総(足利成氏、千葉孝胤)、上総(武田信興(真里谷家)、武田道信(庁南家))、安房(里見義実)]
■関東管領、山内上杉家(上杉顕定)方の勢力
[上野南部・武蔵北部(上杉顕定)、上野北部(長尾氏)]
■扇谷上杉家(上杉定正)方の勢力
[武蔵南部・相模(上杉定正、太田道灌、三浦氏)]
■堀越公方(足利政知)方の勢力
[伊豆(足利政知)]
1493年(明応2年)北条早雲が伊豆に進出して以降、北条氏が伊豆、相模、武蔵に領土を広げていくと、山内・扇谷上杉氏、古河公方の権力は弱くなり、永禄年間(1558-70年)には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために古河城を奪い合い、北条氏の関東支配が確定すると古河公方もその支配体制に組み込まれました。
1567-92年(永禄-天正年間)にかけて北条氏照は佐竹氏や結城氏らに対抗するため城の整備・拡充を進めました。
1583年(天正11年)第5代古河公方・足利義氏が没したとき跡継ぎがいなかったため古河公方は断絶します。 徳川家康の関東入後は小笠原秀政が古河城主(古河藩主)となり、藩主の入れ替えが度々行われ、土井利則が藩主であったときに明治維新を迎えました。
戦国時代 古河城周辺の勢力図
古河城周辺の勢力図(1564年頃)
古河城 縄張り
正保城絵図 下総国古河城絵図 正保元年(1644年)
「国立公文書館デジタルアーカイブより」
正保城絵図 下総国古河城絵図 正保元年(1644年)
「国立公文書館デジタルアーカイブより」