FreeTag

石山本願寺 歴史 資料館


石山本願寺の歴史

1496年(明応5年)9月、浄土真宗本願寺の第8世宗主の蓮如が大坂御堂(坊舎)の建設が開始し、これが後に石山本願寺となりました。

一向一揆の総本山であった浄土真宗本願寺の第10世宗主の証如は山科本願寺を拠点としていましたが、1532年(天文元年)8月、細川晴元と手を結んだ法華一揆衆と六角定頼の軍に焼き討ちにされ、石山本願寺へ退去しました。

石山本願寺は細川晴元との戦いの間に寺領を拡大し、堀や土塁で寺内町の防備を固めて城郭都市を築き、外交では細川家、公家だけではなく甲斐の武田氏や相模の北条氏とも交渉を行いました。

1554年(天文23年)証如が亡くなると、顕如が宗主となります。顕如は六角定頼の猶子の如春尼(武田信玄の正室・三条夫人の妹)と結婚し、細川家(管領家)や京都の公家との縁戚関係を深めて畿内にて勢力を拡大して大名に匹敵する権力を手に入れました。

1568年(永禄11年)石山本願寺は織田信長から矢銭5千貫を要求され1570年正月(元亀元年)には石山本願寺の明け渡しを要求されました。これに対抗するため、顕如は本願寺の防衛のために全国の門徒衆を集めました。

1570年9月(元亀元年)織田信長の上洛により京都を追われた三好三人衆は畿内奪還のために野田・福島に築城し陣を敷き織田信長と戦います。このとき、石山本願寺は最初は中立の立場をとり織田信長の軍が優勢でしたが、突如、三好三人衆に加勢して信長は京都に退却することとなりました。この戦いが石山合戦の引き金となります。

石山合戦では雑賀衆(鈴木重秀)、毛利水軍(乃美宗勝)、村上水軍(村上武吉)などが合戦に参加し織田軍と戦いました。1576年(天正4年)第一次木津川口の戦いでは毛利方の水軍が使用した焙烙火矢、焙烙玉によって織田方の水軍が壊滅的な打撃を受けたそうです。

本願寺と信長の戦い(石山合戦)は以降、1580年(天正6年)の講和まで続き、講和により石山本願寺は織田氏に引き渡される予定でしたが、引き渡しの直前に出火し石山本願寺は焼失してしまいます。

石山合戦の講和に賛成した顕如と三男の准如に対して、嫡子であった教如は信長との講和に反対したこともあり、石山合戦の講和が後に本願寺が東西に分かれる遠因になったといわれています。


戦国時代 石山本願寺周辺の勢力図

三好政権での石山本願寺周辺の勢力図(1561年)

石山本願寺_1561年

三好長慶の勢力は摂津を中心に山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨、河内、大和の10ヵ国に及んでいました。


石山合戦終盤の石山本願寺周辺の勢力図(1580年)

石山本願寺_1580年

石山合戦の講和条約には顕如の側近の下間頼廉・下間頼龍・下間仲孝が署名しました。


石山本願寺 縄張り

石山本願寺_縄張り 石山本願寺_縄張り

〔日本古城絵図〕畿内之部.14 石山古城図

「国立国会図書館デジタルコレクションより」

左端に織田信長本陣があり、川を渡って右に石山御堂、蓮如杉、右端には四天王寺があります。