鉢形城 歴史 資料館
鉢形城の歴史
鉢形城は関東管領山内上杉氏(上杉顕定)の家臣である長尾景春が1476年(文明8年)に築城したと伝えられています。
長尾景春は長尾家の家督相続のことで当主の上杉顕定に不満を持っており鉢形城を拠点に反乱を起こしました。 長尾春景は上杉顕定を上野国まで追い出すことに成功し、上杉氏に敵対する勢力と同盟し、古河公方(足利成氏)の支援を受けて勢力を拡大しましたが、これを武蔵への勢力拡大の好機とらえた扇谷上杉氏の家宰の太田道灌に攻撃され徐々に戦況が悪化します。1478年(文明10年) 太田道灌の策略により上杉氏と古河公方との間に和議が成立して、鉢形城を道灌に奪われ、再び上杉顕定は鉢形城に入城しました。
太田道灌は長尾景春の拠点や反上杉の勢力を攻略して、1482年(文明14年)古河公方(足利成氏)と山内上杉氏(上杉顕定)と扇谷上杉氏(上杉定正)との間で都鄙合体(とひがったい)と呼ばれる和議を成立させました。 上杉定正は山内家主導で進められた和議に不満を持ち、上杉顕定と次第に不仲となります。
1486年(文明18年)上杉定正は太田道灌の名声を恐れて、道灌を相模糟屋館に招いて暗殺しました。山内上杉家と扇谷上杉家の緊張が高まっていきました。
1488年(長享2年)上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻撃し勝利しましたが鉢形城は落とせませんでした。
1494年(明応3年)上杉定正は伊勢宗瑞(北条早雲)と共に武蔵国高見原に出陣して上杉顕定と対峙しますが急死してしまいます。
1509年(永正6年)上杉顕定は弟で越後国守護の上杉房能が長尾為景(越後国守護代)に担がれた上杉定実(越後上杉家8代当主、越後国守護代)に殺害された復讐のために越後に進軍して都市の中心部を制圧しましたが、国人衆の反発が強く統治に失敗して、1510年(永正7年)6月、長森原の戦い(新潟県南魚沼市)で長尾為景と援軍の高梨政盛(北信濃の豪族)に敗北し自刃しました。
上杉顕実が山内上杉家の家督を継ぎ関東管領を継承しますが、1512年(永正9年)顕実と同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に鉢形城を包囲され落城し、顕実は山内上杉家当主の座を奪われます。
1515年(永正12年)顕実が亡くなり、上杉憲房は関東管領職を継承しますが、家臣の長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の北条氏綱、甲斐の武田信虎らとの抗争のなかで病に倒れ1525年(大永5年)病死します。 家督を養子の上杉憲寛が継ぎますが、後に家督争いが起こり、実子の上杉憲政が家督を継ぎます。
1537年(天文6年)北条氏綱が上杉朝興(扇谷上杉氏)の河越城を奪い北条氏が武蔵に勢力を伸ばすと、 それまで敵対していた、上杉憲政(山内上杉氏・関東管領)、上杉朝興(扇谷上杉氏)、足利晴氏(古河公方)らは和睦して、1545年(天文14年)10月から8万の大軍で河越城を包囲しますが、1546年(天文15年)4月、救援にかけつけた北条氏康らの夜襲によって連合軍は敗北し、上杉憲政(山内上杉氏・関東管領)は武蔵の覇権を奪われました。
平井城で再起を図った上杉憲政は北条氏康に追い詰められて、1552年(天文21年)越後の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃亡し、1561年(永禄4年)3月、鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎に関東管領職を譲渡しました。
1564年(永禄7年)北条氏邦(北条氏康の四男、藤田氏邦)が鉢形城へ入城し、北条氏の北関東の拠点となります。
1569年(永禄12年)武田信玄に、1574年(天正2年)上杉謙信に攻撃されますが鉢形城は落ちませんでした。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐で鉢形城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸、徳川家康らの連合軍に包囲され、北条氏邦は約一か月籠城したのちに開城しました。北条氏邦は出家姿になり藤田家の菩提寺正竜寺に蟄居して降伏・開城したそうです。
戦国時代 鉢形城周辺の勢力図
鉢形城周辺の勢力図(1545年)
上杉憲政は河越城を攻める前に今川義元と同盟し、義元が駿河の北条領に侵攻して北条氏康が迎え撃つために出陣したすきをついて河越城を大軍で包囲しました。
鉢形城 縄張り
現地案内板より