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岐阜城 歴史 資料館


岐阜城の歴史

1201年(建仁元年)下級貴族の二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが稲葉山城の始まりです。二階堂行政は算道に詳しく熱田神宮の算師を勤めていたこともありました。

15世紀中頃、美濃守護代の斎藤利永が砦を修復して居城としました。1525年(大永5年)斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を奪い、新左衛門尉が亡くなると子の長井新九郎規秀(斎藤道三)が後を継いで城主となりました。

1542年(天文11年)斎藤道三は土岐頼芸(美濃守護)を追放し事実上の美濃の国主となります。

1544年(天文13年)織田信秀(信長の父)は土岐氏を支援して稲葉山城下を攻撃し、斎藤道三は籠城して織田軍の撤退を待ち奇襲をかけて織田軍を壊滅させます。この戦いの後に、斎藤道三と織田信秀は和睦して、1548年(天文17年)道三は娘の帰蝶を信秀の嫡子の信長に嫁がせました。

1554年(天文23年)斎藤道三は家督と稲葉山城を嫡子の斎藤義龍に譲ります。1556年(弘治4年)斎藤家の家督争いが発端となった長良川の戦いで斎藤道三は斎藤義龍に敗れ戦死しました。このころ、明智光秀は斎藤道三に仕えていたそうです。

1561年(永禄4年)斎藤義龍が急死し斎藤龍興が14歳で家督を継ぎ稲葉山城の城主となります。 1564年(永禄7年)斎藤氏の家臣であった竹中重治(竹中半兵衛)と安藤守就が離反し、稲葉山城を乗っ取ります。

1567年(永禄10年)織田信長が西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)の内応により稲葉山城を攻略し、拠点を小牧山城から稲葉山城に移転して地名を岐阜と改めました。

1576年(天正4年)織田信長は織田信忠に家督を譲り美濃、尾張を与え、信忠が岐阜城を居城とします。

1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が亡くなり、清須会議によって美濃は織田信孝(信長の三男)の領地となり信孝が岐阜城の城主となります。織田信孝、柴田勝家、滝川一益は次第に秀吉と対立します。1583年(天正11年)秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ち取り、岐阜城は織田信雄(信長の三男)に包囲されて信孝は降伏して切腹しました。美濃は池田恒興の領地となり、恒興は大垣城の城主に、池田元助(恒興の長男)が岐阜城の城主となります。

1584年(天正14年)小牧長久手の戦いで池田恒興と元助が討ち死にし、翌年に池田輝政(恒興の次男)が岐阜城の城主となります。

1584年(天正14年)輝政が東三河の吉田城の転封し、以降、豊臣政権下で豊臣秀勝、織田秀信(三法師)が岐阜城に入りました。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのとき、織田秀信は西軍につき、福島正則、池田輝政らに攻められて降伏しました。

1601年(慶長6年)徳川家康が岐阜城を廃城にしました。


戦国時代 岐阜城周辺の勢力図

岐阜城周辺の勢力図(1567年)

岐阜城_1567年

斎藤龍興が家督を継いだ後、森可成、堀秀重、明智光秀、竹中重治など有力な家臣が離反し、織田信長に対抗することが難しくなりました。1567年、西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)が信長に内応し稲葉山城を奪われると、斎藤龍興は木曽川を船で下り北伊勢の長島に逃れました。


岐阜城 縄張り

岐阜城の縄張り

「信長居館発掘案内所 案内板より」