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江戸城 歴史 資料館


江戸城の歴史

享徳の乱の時に、扇谷上杉氏(上杉持朝)が古河公方(足利成氏)の勢力(古河城、関宿城、忍城など)に対抗するために、1457年(康正3年)家臣の太田道灌に命じて江戸城を築城しました。上杉持朝は河越城を居城とし太田道灌を江戸城の城主として古河公方に対して防衛線を築きました。

1486年(文明18年)太田道灌は扇谷上杉氏の当主となった上杉定正に相模糟屋館に招かれて暗殺されてしまい、子の太田資康が江戸城主となりますが上杉定正に攻められ甲斐に逃亡しました。

太田道灌の暗殺の後、多くの家臣が上杉定正のもとを去り、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)の家臣となり、扇谷上杉家と山内上杉家の関係が悪化し、1487年(長享元年)上杉顕定が扇谷上杉家の下野国勧農城を攻撃し、両上杉家は1505年(永正2年)まで戦い(長享の乱)衰退していきます。

長享の乱が終わると、太田資康は扇谷上杉家の上杉朝良に仕え江戸城に復帰します。1524年(大永4年)資康の子の太田資高は武蔵の国に北条氏綱が侵攻してくると氏康に内通して江戸城を奪います。江戸城には城代として富永政直、遠山直景、太田資高がおかれました。

1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に徳川家康の説得により江戸城は開城し、同年の8月に徳川家康が入城しました。


戦国時代 江戸城周辺の勢力図

江戸城周辺の勢力図(1524年)

江戸城_1524年

江戸城を攻略した後、北条氏綱は扇谷上杉家と山内上杉家と武蔵の領地をめぐって争います。