千早城 歴史 資料館
千早城の歴史
鎌倉時代末期1331-33年(元徳3年-元弘3年)後醍醐天皇の勢力と幕府勢力(北条高時)が全国的に戦う元弘の乱が起こりました。楠木正成は後醍醐天皇の勢力に呼応して鎌倉幕府と戦うなかで、1332年(元弘2年/正慶元年)赤坂城の詰めの城として千早城を築城しました。
1333年(元弘3年/正慶2年)千早城の戦いで楠木軍はわら人形を兵士に見せたり包囲軍の長梯子を火計で焼き払うなどの奇策を駆使して包囲軍を疲弊させ撤退させました。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武の新政(親政:天皇が自らが政治を行う)で国を統治しますが、鎌倉幕府の滅亡後も旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こり、建武政権は成良親王を征夷大将軍に任命し足利尊氏は勅状を得ないまま討伐に参加しました。尊氏が討伐に参加した武将に独自に恩賞を与えたことで、建武政権から離反したとみなされて、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏の討伐令を命じ、建武政権と足利氏の戦い(建武の乱)が始まります。
楠木正成は建武政権に従い最後まで足利尊氏と戦い、1336年7月(延元元年/建武3年)湊川の戦いで敗れ自害しました。
千早城は南北朝時代末期1392年(明徳3年)正月、楠木正勝(楠木正成の孫)の時に北朝方の畠山基国に攻められ落城しました。
千早城 縄張り
右側が北、左側が南になります。
右端には下赤阪城への道が描かれています。
左側に本城の文字があり、左下には金剛山が描かれています。
〔日本古城絵図〕畿内之部.12 千剣破之城図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」