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芥川山城 歴史 資料館


芥川山城の歴史

芥川山城の正確な築城時期は不明です。室町幕府の管領であった細川高国が築城しました。細川高国は細川政元の養子となったため祖父は細川勝元(応仁の乱の東軍の総大将)になります。

1507年(永正4年)関東管領の細川政元が暗殺されると、細川京兆家(管領家)の家督争いがおこり、細川高国は大内氏、畠山氏、六角氏らの反三好勢と手を組み、細川澄元・晴元親子、三好氏(三好之長、三好長秀、三好元長)らと20年以上にわたって戦うことになります。

細川高国は足利義晴(12代将軍)を擁立して室町幕府の実権を握りますが、1527年(大永7年)桂川原の戦いで細川澄元・晴元、三好氏、波多野元清らに敗れ、1531年(享禄4年)天王寺の戦いで三好元長と戦い赤松政祐に裏切られ敗北し自害しました。

細川京兆家の家督争いに勝った細川晴元でしたが、河内を巡る争いや三好元長との対立により、1532年(天文元年)飯盛山城(木沢長政)を攻めた畠山義堯、三好元長に対して、山科本願寺証如とともに木沢長政を援護しました。三好元長は一向一揆軍に包囲されて自害し、細川晴元は勝利しますが、今度は一向一揆の鎮圧に失敗して一時敵に淡路へ撤退します。

1533年(天文2年)細川晴元は三好氏(三好長慶)を仲介者として本願寺と和睦、この頃に芥川山城に入城して城を改修し、次第に畿内での勢力を安定させていきました。

1546年(天文15年)敵対していた細川氏綱に芥川山城を奪われますが、翌年に三好長慶が無血開城し以降、芥川山城は長慶の支配下となります。

1548年8月(天文17年)三好長慶は敵であった細川氏綱、遊佐長教と手を組んで細川晴元を裏切り、以降、勢力を拡大していく三好長慶に対して細川晴元は戦いを挑みますが連敗して摂津の寺に幽閉されて死去しました。

三好長慶は1553年(天文22年)から1560年(永禄3年)の間、飯盛山城へ移るまで芥川山城を居城とし城を拡張しました。

1561年(永禄4年)弟の十河一存が急死、各地で反三好派の勢力との戦いがおこり、1563年(永禄6年)嫡男の三好義興が亡くなり、名目上の主君であった細川氏綱も病死し、三好政権は衰退します。

三好氏の勢力が衰退し、1568年(永禄11年)織田信長の上洛以降、和田惟政、高山友照が城主となりました。


戦国時代 芥川山城周辺の勢力図

三好政権での芥川山城周辺の勢力図(1561年)

芥川山城_1561年

三好長慶の勢力は摂津を中心に山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨、河内、大和の10ヵ国に及んでいました。