結城城 戦国武将
結城政勝![]() |
1503年(文亀3年)-1559年(永禄2年)。 下総結城氏第16代当主。 父の政朝と同様に領土の拡大政策を行いました。 1548年(天文17年)子の明朝が亡くなると、有髪のまま出家し仏像や絵画の制作などに専心しました。乗国寺、松源寺、藤長寺、大雲寺など多くの寺院に政勝の作品が残っているそうです。 弟の小山高朝の次男の晴朝を後継者として養子に迎えました。 1556年(弘治2年)結城氏新法度を制定しました。家中の統制、商取引、争い事など多岐にわたる規定を含む分国法で、領国の統治に苦労していたことがうかがえるそうです。 1559年(永禄2年)死去しました。 |
結城晴朝![]() |
1534年(天文3年)-1614年(慶長19年)。 下総結城氏第17代当主。 1560年(永禄3年)佐竹氏の要請で長尾景虎(上杉謙信)の関東遠征に参加しました。古河公方(足利義氏)と北条氏に加担していましたが、長尾景虎(上杉謙信)が関東管領に就任すると反北条に転じました。 長尾景虎(上杉謙信)と北条氏の勢力の間で生き残りを図るために結城晴朝は実家の小山氏と敵対関係となり戦うこともありました。 1576年(天正4年)兄の小山秀綱が北条氏照に降伏すると、翌年、北条氏に攻められますが、佐竹氏や宇都宮氏との婚姻外交により周辺の領主と連合して北条氏の攻撃をしのぎました。 1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領を安堵されました。結城晴朝は秀吉に養子縁組を願い出て、秀吉が養子としていた徳川家康の次男の秀康に養女を嫁がせて養嗣子として迎え、結城秀康に家督を譲って隠居しました。 1601年(慶長6年)関ヶ原の戦いの後、秀康が越前国へ転封となると晴朝もこれに従いました。 1614年(慶長19年)越前北ノ庄で支給しました。 |
