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結城城 歴史 資料館


結城城の歴史

小山下野大掾政光の四男であった結城朝光は、治承・寿永の乱(1180-85年(治承4-元暦2年))での野木宮合戦(志田義広)で武功をあげ恩賞として結城郡の地頭職に補任され、当地に城を築いたのが結城城の始まりです。

1438年(永享10年)永享の乱が起こり、翌年、第6代将軍足利義政、関東管領上杉憲実により第4代鎌倉公方足利持氏は討たれ、鎌倉府が滅亡します。

1440年(永享12年)3月に足利持氏の残党と第11代当主の結城氏朝・持朝父子などが、足利持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱(結城合戦)を起こします。幕府は総大将・上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、1440年(永享12年)7月、結城氏朝・持朝らの立てこもった結城城を包囲します。1441年(嘉吉元年)4月、結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城しました。持氏の遺児の永寿王丸(足利成氏)は京都に送られ生き延びます。

1447年(文安4年)幕府は足利持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望により、足利成氏を第5代鎌倉公方にします。結城氏朝の四男の結城成朝は足利成氏によって結城合戦のことを許され、第13代当主となり結城家を再興しました。

1455年(享徳3年)享徳の乱で足利成氏と関東管領・上杉氏とが対立すると第14代当主の結城氏広は古河公方・足利成氏に味方しました。

1481年(文明13年)氏広が没すると、第15代当主の結城政朝はわずか三歳で家督を継ぎますが、実権は重臣・多賀谷和泉守が握っていました。政朝は成人すると多賀谷和泉守を誅殺して実権を奪い返します。その後、下野国の宇都宮成綱の娘を室に迎えて、宇都宮氏と第3代古河公方(足利高基)と同盟関係を築きました。

1516年(永正13年)宇都宮成綱が没すると、家督を継いだ宇都宮忠綱との関係が悪化します。1526年(大永6年)猿山合戦で宇都宮氏に大勝し、領土拡大政策を積極的に行い、宇都宮氏に侵食されていた下野の旧結城領を奪還して下野にまで勢力を拡大しました。1527年(大永7年)家督を政直に譲った後も小山氏の家督争いに介入し三男の高朝を小山氏当主に擁立しました。

1532年頃(天文年間)に兄の政直の死により第16代当主となった結城政勝は領土拡大政策を行い、宇都宮氏、佐竹氏、小田氏と度々争います。政勝は跡継ぎに恵まれず、小山高朝の三男・晴朝を養子として家督を継がせます。

第16代当主の結城晴朝も宇都宮氏、佐竹氏、小田氏と争います。1560年(永禄3年)宇都宮広綱、佐竹義昭、小田氏治に結城城を包囲されますが籠城して撃退し、和議を結びます。1560-61年(永禄3-4年)長尾氏(長尾景虎)・上杉氏(上杉憲政)の小田原攻めでは最初は古河公方(足利義氏)と北条氏(北条氏康・氏政)に加担していましたが、長尾景虎が関東管領に就任すると北条氏に反旗を翻します。結城晴朝は北条氏に対抗するために宇都宮氏、佐竹氏、江戸氏と婚姻外交を行い北条氏の攻撃を防ぎました。

1590年(天正18年)結城晴朝は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領を安堵され、秀吉が養子としていた徳川家康の次男・秀康に養女を嫁がせて養嗣子として迎え、秀康に家督を譲ると隠居します。

1601年(慶長6年)結城秀康が越前に移封され、結城城は一時廃城となります。1700年(元禄13年)水野氏が結城に入封して結城城を復興しました。


戦国時代 結城城周辺の勢力図

結城城周辺の勢力図(1560年頃)

結城城_1560年