坂本城 歴史 資料館
坂本城の歴史
1571年(元亀2年)織田信長の比叡山焼き討ちの後、近江国の滋賀群(大津市辺り)が明智光秀に与えられ、信長の命により坂本城を築城しました。
1575年(天正3年)明智光秀は丹波攻略を命じられます。1576年(天正4年)黒井城の戦いでは波多野秀治に裏切られて敗走します。光秀は再度八上城を攻撃し、1578年(天正6年)3月、黒井城の赤井直正が病死、1579年(天正7年)6月、包囲戦の末に八上城を降伏させます。同年8月に黒井城を落とし丹波を平定、すぐに細川藤孝と協力して丹後も平定します。
八上城は明智光秀の母が磔になった城として知られていますが、史実ではないそうです。
明智光秀は丹波一国(約29万石)を加増され計34万石を領し、福知山城(明智秀光)、黒井城(斎藤利三)、亀山城と坂本城を自らが城主となります。また、丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶が寄騎として配属され、光秀の軍勢は強大なものとなりました。
1582年(天正10年)6月2日、明智光秀は亀山城から出陣して本能寺の変が起こります。6月13日、山崎の戦いに敗れた光秀は勝竜寺城から坂本城に引き上げる最中に死亡しました。
光秀の娘婿の明智秀満は安土城を守備していましたが光秀の敗北を知ると坂本城に向かいます。坂本城は堀秀政に包囲され、秀満は光秀の妻子と自分の妻を刺殺した後に城に火を放って自害しました。
その後、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政が坂本城の城主となりますが、坂本城は1586年(天正16年)豊臣秀吉命により浅野長政が大津城を築城したことで廃城となりました。
戦国時代 坂本城周辺の勢力図
山崎の戦い前の坂本城周辺の勢力図(1582年)
山崎の戦いで、明智光秀の寄騎であった中川清秀、高山右近らは秀吉を支持し、親戚であった細川幽斎、筒井順慶らは光秀に援軍を出しませんでした。羽柴軍の兵力は明智軍の2倍から3倍となり、また、羽柴軍の行軍の速度が早かったため明智軍は十分な態勢を整えることができませんでした。