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小谷城 歴史 資料館


小谷城の歴史

1516年(永正13年)浅井亮政が築城し、浅井氏の代々の居城となります。

浅井氏は元々、京極氏の被官でしたが、京極高清の代に家督相続で争いが発生し、浅井亮政が実権を掌握するようになります。六角氏は京極氏の本家筋にもあたり、次第に、近江守護職であった六角氏(六角定頼)と対立します。浅井亮政は国人衆を味方にして抵抗し、越前の朝倉氏(朝倉宗滴が仲介)と同盟していたとも言われていますが、実際のところは対等な関係ではなかったようです。

1542年(天文11年)亮政が死去し浅井久政が家督を継ぐと、六角氏の攻勢に押されて従属します。久政の外交政策に家臣の不満が高まり、1560年(永禄3年)浅井賢政(後の長政)が野良田の戦いで六角義賢に大勝したことをきっかけに浅井氏は六角氏から独立し、久政は一時的に竹生島に幽閉され強制的に隠居させられます。

1567年(永禄10年)浅井長政は織田信長の妹の市を妻として信長と同盟しましたが、1570年(永禄13年)5月、信長との同盟を破棄し、朝倉義景を攻撃していた織田・徳川軍を背後から襲いました(金ヶ崎の戦い)。

1570年(元亀元年)7月、浅井・朝倉軍は織田・徳川軍に姉川の戦いで敗れます。このとき、藤堂高虎は浅井軍で武功を挙げ、浅井長政から感状を送られました。

1573年(天正元年)浅井長政は5千の兵力で小谷城に籠城しましたが織田信長に敗れ(小谷城の戦い)、浅井家は滅亡します。市と3人の娘の茶々、初、江(浅井三姉妹)は織田家に戻ります。浅井三姉妹は後にそれぞれ豊臣秀吉、京極高次、徳川秀忠の妻となりました。

小谷城は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は立地の観点から小谷城を好まなかったため新しく長浜城を築城しました。小谷城の資材は長浜城に利用され、小谷城の城下町はそのまま長浜城下に移転されました。


戦国時代 小谷城周辺の勢力図

金ヶ崎の戦い前の小谷城周辺の勢力図(1569年)

小谷城_1569年

金ヶ崎の戦いで背後を浅井軍に襲われた織田信長は朽木元綱の協力により京へ逃れました。朽木元綱は幕府の奉公衆(将軍直属の武官官僚)でしたが浅井長政とも繋がりがあり、松永久秀の説得により信長を助けたとも言われています。