箕輪城 歴史 資料館
箕輪城の歴史
箕輪城は、1512年(永正9年)長野業尚によって築かれたという説と、1526年(大永6年)業尚の子の長野憲業によって築かれたという説があります。
長野氏は関東管領であった山内上杉氏に従っており、長野業正は、1546年(天文15年)の河越城の戦いの際には、上杉憲政の軍に参戦しています。業正の長男であった長野吉業は河越城の戦いによる傷が元で病死したそうです。
1558年(永禄元年)関東管領の上杉憲政が越後へ亡命すると、箕輪城は相模の北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉謙信)が侵攻を繰り返す場となりました。
長野業正は上杉謙信に臣従し、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団を束ねて武田信玄の侵攻を防ぎ、長野氏の全盛期を築きました。
1561年(永禄4年)長野業正が病死すると業正の子であった長野業盛が家督を継ぎます。
武田信玄は業正の死を知ると西上野への侵攻を開始、1565年(永禄8年)頃に箕輪城は孤立し、1566年(翌永禄9年)武田軍は箕輪城へ総攻撃を仕掛け、上杉謙信の援軍が来る前に落城して長野業盛は自刃しました。
武田氏の時代には、甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種、内藤昌豊が城代となりました。
1582年(天正10年)2月、天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣であった滝川一益が入城しますが、同年6月、織田信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政が上野国に侵攻し、北条氏政の弟の北条氏邦が箕輪城に入城しました。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐で箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城し、その後、徳川家康が関東に入封すると、箕輪城は井伊直政に与えられました。
井伊直政は箕輪城を近代城郭に改修しましたが、1598年(慶長3年)高崎城に移封され、箕輪城は廃城となりました。
戦国時代 箕輪城周辺の勢力図
箕輪城周辺の勢力図(1541年)
長野業正は関東管領の上杉憲政に従っていました。
箕輪城周辺の勢力図(1561年9月初め)
長野業正が亡くなる前の箕輪城周辺の勢力図です。西には武田氏の勢力、南には北条氏の勢力があります。
箕輪城周辺の勢力図(1583年)
1582年(天正10年)6月、本能寺の変で織田信長が死去すると、北条氏政は北条氏直と北条氏邦に命じて上野に侵攻します。武田氏の滅亡後、上野国を領していた滝川一益は北条氏との戦い(神流川の戦い)で敗北し、箕輪城に北条氏邦が入城します。
箕輪城 縄張り
現地の案内板より