清洲城 戦国武将
織田信友 |
生年不詳-1555年(天文24年)。 尾張守護代。清洲織田氏の当主。 清洲城の城主。 尾張の覇権を巡って織田信秀と争う。 1555年(弘治元年)織田信長と結んだ織田信光によって殺害され、清洲織田氏は断絶する。 |
織田信秀 |
1511年(永正8年)-1552年(天文21年)。 尾張守護代の清洲織田氏に仕える清洲三奉行。 勝幡城の城主。織田信長の父。 1538年(天文7年)計略により那古野城(今川氏豊:今川義元の弟)を奪い取る。熱田の地を支配して経済的な基盤を築き、経済力を利用して朝廷や室町幕府と外交交渉を行った。三河の松平氏、美濃の斎藤氏と勢力を争う。 1547年(天文16年)岡崎城を攻め落とし、城主の松平広忠を降伏させた。この頃に広忠の嫡男の竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になった考えられている。 1549年(天文18年)斎藤道三と和睦するために、道三の娘の濃姫(帰蝶)を織田信長の正室に迎えた。 織田信秀は戦国大名として勢力拡大に成功したが、三河で今川・松平の軍勢に大敗し、尾張では主家である清洲織田家と争い、苦境に立たされた。 1552年(天文21年)信秀は末森城で病死した。 |
織田信長 |
1534年(天文3年)-1582年(天文10年)。 1534年(天文3年)織田信長は織田信秀の嫡男として勝幡城で生まれる。 1560年(永禄3年)桶狭間の戦いのとき、信長は清洲城から出陣して今川義元に勝利した。 1568年(永禄11年)信長は足利義昭を奉じて上洛し、後に義昭を追放して畿内に中央主権を樹立して天下人となった。1582年(天正10年)明智光秀が織田信長に謀反を起こしたため、信長は本能寺で自害し、享年49歳で亡くなった。最近の研究では、織田信長の革新性について疑義が呈されているそうです。 織田信長ゆかりの城織田信長ゆかりの寺・神社 |
織田信忠 |
1557年(弘治3年)-1582年(天文10年)。 織田信長の嫡男。 1557年(弘治3年)織田信忠は織田信長の嫡男として清洲城で生まれる。 1575年(天正3年)信忠は長篠の戦いで大きな武功を挙げる。 同年、信長から家督を譲られて岐阜城主となり、美濃・尾張両国を領有した。 1582年(天正10年)明智光秀が信長に謀反を起こしたため、信忠は本能寺で自害し、享年26歳で亡くなった。 |
織田信雄 |
1558年(永禄元年)-1630年(寛永7年)。 織田信長の次男。母は生駒殿。 1558年(永禄元年)織田信雄は織田信長の次男として小折城で生まれる。 1569年(永禄12年)伊勢北畠氏の養嗣子となる。 1570-74年、長島一向一揆との戦いに参戦。 1578-79年(天正6-7年)信雄は伊賀攻めの初戦で大敗して信長に叱責される。 1582年(天正10年)本能寺の変の後の清洲会議で、織田家の家督を信忠の遺児の三法師(織田秀信)が継ぐこととなった。信雄は不満であったが、尾張・伊賀(三郡)・南伊勢の約100万石を領有し、居城を清洲城に移した。 |
福島正則 |
1561年(永禄4年)-1624年(寛永元年)。 1561年(永禄4年)福島正則は尾張で生まれる。正則の母は羽柴秀吉の母の妹。 秀吉の子飼いの武将として活躍する。 1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いにおいて、一番槍の大きな武功を挙げた。賤ヶ岳の七本槍。 1595年(文禄4年)秀吉から尾張国清洲に24万石の所領を与えられ、清洲城を居城にした。 |
松平忠吉 |
1580年(天正8年)-1607年(慶長12年)。 徳川家康の四男。 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでの初陣の時に、福島正則と先陣を争った。手傷を負いながらも島津豊久を討ち取る武功を挙げた。尾張、美濃に52万石を与えられて清州城に入った。 |