伊賀上野城 歴史 資料館
伊賀上野城の歴史
室町時代、伊賀上野城のあった場所には伊賀の守護の二木氏の居館がありました。伊賀では幕府に従わない小武士団が割拠する状況が続き、戦国時代、二木氏は名ばかりの守護となり、伊賀惣国一揆とよばれる共同体が勢力を持ちます。
1578-9年(天正6-7年)伊勢の田丸城を居城としていた織田信雄は信長に相談せずに伊賀に侵攻(第一次天正伊賀の乱)して伊賀惣国一揆に敗退して信長から叱責されます。
1580年(天正8年)田丸城が焼失したため織田信雄は松ヶ島城に移ります。翌年、信長の命を受けて信雄は総大将として再び伊賀へ侵攻して伊賀を平定します(第二次天正伊賀の乱)。信長は信雄の家臣である滝川雄利を伊賀の守護としました。
本能寺の変の後、1584年(天正12年)羽柴秀吉の家臣の脇坂安治が伊賀の守護となりますが、1585年(天正13年)に摂津へ転封となり、筒井定次が大和郡山城から伊賀に移り伊賀上野城を築城しました。
筒井定次は関ヶ原の戦いで東軍に参加しますが不行状であるという理由で1608年(慶長13年)に改易され、代わりに藤堂高虎が伊予の宇和島城から伊賀上野城へ入城します。
1611年(慶長16年)徳川家康の命により藤堂高虎が伊賀上野城を拡張しました。
戦国時代 伊賀上野城周辺の勢力図
伊賀上野城周辺の勢力図(1585年)
1584年(天正12年)筒井順慶が亡くなり定次が家督を継ぎます。1585年(天正13年)筒井定次は羽柴秀吉による紀州征伐、四国攻めで武功を挙げました。戦いの後に秀吉は大規模な国替えを行い、大和に羽柴秀長が入国し筒井定次は伊賀に移封されました。定次は秀吉から羽柴姓を名乗る事を許されたそうです。
伊賀上野城 縄張り
〔日本古城絵図〕東海道之部(1).16 伊賀上野城図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」