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常陸太田城 戦国武将


佐竹義昭

五本骨扇に月丸

1531年(享禄4年)-1565年(永禄8年)。

佐竹氏の第17代当主。

1545年(天文14年)父の義篤が死去し家督を相続しました。佐竹義昭は常陸北部を支配する戦国大名として常陸統一を目指しました。

1546年(天文15年)河越夜戦にて北条氏康に大敗した関東管領・上杉憲政は、常陸に勢力を拡大していた佐竹義昭に関東管領職と山内上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めましたが、佐竹義昭はこれを拒否しました。

1557年(弘治3年)宇都宮城を追われた宇都宮広綱の復帰に協力し援軍を送りました。後に義昭は娘を広綱に嫁がせました。

1558年(永禄元年)陸奥の岩城重隆が常陸に侵攻してくると小里で撃退し、婚姻関係を利用して和睦を進めました。

1560年(永禄3年)宇都宮氏、小田氏と協力して結城晴朝を攻め有利な形で和睦しました。

1562年(永禄5年)上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めました。長男の義重に家督を譲りました。

1564年(永禄7年)北条氏康、結城晴朝と手を結んだ小田氏治の攻撃を受けますが、上杉謙信、宇都宮広綱と手を結んで撃退し小田城を奪いました。

1565年(永禄8年)常陸統一を目前にして死去しました。


佐竹義重

五本骨扇に月丸

1547年(天文16年)-1612年(慶長17年)。

佐竹氏の第18代当主。

永禄5年(1562年)、父・義昭が隠居したため、家督を継いで第18代当主となった。

上杉謙信との関係を強化し勢力拡大を目指しました。

1566年(永禄9年)小田氏治を攻めて小田領の大半を奪いました。さらに、下野国那須郡の武茂氏を攻めて従属させました。

1567年(永禄10年)白河義親を攻めて勝利しました。

1569年(永禄12年)手這坂の戦いで小田氏治に勝利し小田城を奪いました。

1572年(元亀3年)白河結城氏、岩城氏を配下としました。

勢力の拡大に伴い周辺大名から警戒されますが、北条氏政や蘆名盛氏と戦うため、婚姻や外交を駆使し、羽柴秀吉に誼を通じて佐竹氏の勢力の維持に努めました。

1584年(天正12年)沼尻の合戦で北条氏の猛攻撃を受け下野の長沼城を奪われ和睦しました。この戦いで佐竹・宇都宮軍は長篠の戦いを上回る8千丁の鉄砲を用意したそうです。

1585年(天正13年)伊達氏と対立する二本松氏救援の名目で佐竹・蘆名連合軍を結成して奥州に出陣し人取橋で伊達軍と戦いました(人取橋の戦い)。翌年、二本松城が開城して二本松氏が事実上滅亡したため、伊達氏と和議を結びました。

1590年(天正18年)小田原征伐が始まると、義重は義宣とともに小田原に参陣し、石田三成の忍城攻めに参加しました。奥州仕置にも従い秀吉から常陸国54万石の支配権を認められました。

1612年(慶長17年)狩猟中に落馬して死去しました。