常陸太田城 歴史 資料館
常陸太田城の歴史
1109年(天仁2年)藤原通延が下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるとされています。 佐竹氏は源氏一族で、平安末期に源義光の孫である源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)にて勢力を伸ばし「佐竹冠者」と称したのが始まりです。 第2代当主の佐竹隆義は藤原通盛(通延の孫)を服属させて自らが太田城を居城とします。
平治の乱(1160年(平時元年))以降、佐竹隆義・秀義は源氏出身であったが平氏に従っていたため、治承・寿永の乱(1180-85年)(源平合戦)においても佐竹氏は源頼朝には呼応しませんでした。そのため、源頼朝に敵視され攻撃を受けます。その後、佐竹秀義は頼朝から許され、1189年(文治5年)奥州合戦にて源頼朝の軍勢に参加して武功を挙げて御家人となります。 奥州合戦の時、源頼朝の旗と区別するために扇を旗の上に付けるよう命じられ、これが佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」の由来とされています。
鎌倉時代(1185-1333年)佐竹氏は幕府に忠実に従っていましたが、足利尊氏による鎌倉幕府の討幕運動が始まると、第8代当主の佐竹貞義は尊氏の調略により討幕軍に寝返り、その功績により常陸守護となります。以降、常陸守護は佐竹氏の世襲となりました。
第11代当主の佐竹義盛は関東管領上杉憲定の次男・義憲(義人)を婿養子として迎え、佐竹義人が家督を継ぎます。
第17代当主、佐竹義昭は常陸北部を支配する戦国大名として常陸統一を目指しました。1546年(天文15年)河越夜戦にて北条氏康に大敗した関東管領・上杉憲政は、常陸に勢力を拡大していた佐竹義昭に関東管領職と山内上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めましたが、佐竹義昭はこれを拒否しました。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、第18・19代当主、佐竹義重・義宣は豊臣氏に加担し、これにより佐竹氏は豊臣秀吉より常陸一国を与えられます。1594年(文禄3年)佐竹氏が江戸氏から馬場城(水戸城)を奪い、それまで居城としていた太田城から水戸城へ拠点を移しました。
戦国時代 常陸太田城周辺の勢力図
常陸太田城周辺の勢力図(1560年頃)
佐竹義昭は上杉謙信と同盟し1562年に家督を佐竹義重に譲り1565年に亡くなります。佐竹義重は上杉謙信との同盟を継続し1569年(永禄12年)手這坂の戦いで小田氏治に勝利して小田城を奪います。佐竹義重は佐竹氏の全盛期を築きます。義重は最新の冶金技術を導入して金山開発を行い、資金力を元に関東一の鉄砲隊を備えたと言われています。