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山形城 歴史 資料館


山形城の歴史

1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)斯波兼頼(最上兼頼)が築城しました。山形城は最上氏代々の居城となりました。

1548年(天文17年)伊達稙宗と長男の晴宗(伊達政宗の祖父)が争った天文の乱の後、最上義守は伊達氏から独立して勢力の拡大を図ります。

1560年(永禄3年)最上義守の子の白寿丸は元服して将軍の足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光(よしあき)と名乗りました。1563年(永禄6年)最上義光は大崎義直の娘を娶り、1564年(1564年)最上義守の娘の義姫は伊達輝宗に嫁ぎ、1567年(永禄10年)米沢城で伊達政宗が生まれます。

1570年(元亀元年)頃に当主の最上義守と嫡男の最上義光の間で諍いが生じ、1574年(天正2年)両者の関係が悪化すると、伊達輝宗が岳父の最上義守を救援する名目で最上領内に出兵します。天童氏、白鳥氏、蔵増氏、延沢氏らが伊達氏に同調しますが、最上義光は巧みに撃退して伊達氏からの独立に成功します。

最上義光は出羽統一のため天童氏を盟主とする最上八楯(もがみやつだて)と呼ばれる国人衆連合と戦います。1578年(天正6年)上山城の戦いで調略により上山満兼を殺害して上山城を奪います。1583年(天正11年)大宝寺義氏の家臣の内応に成功し義氏は自刃しました。1584年(天正12年)延沢満延を婚姻外交で味方に付けて、天童頼澄を破り最上八楯は崩壊し、義光は最上郡全域を支配下に収めました。

1588年(天正16年)2月、大崎合戦で伊達政宗が義光の義兄の大崎義隆を攻撃すると、最上義光は援軍を送り伊達政宗を破りました。5月、豊臣秀吉により最上義光は羽州探題に任命されました。

1589年(天正17年)7月、摺上原の戦いで伊達政宗と蘆名義広が戦うと、徳川家康が書状で伊達政宗と最上義光の仲を取り持ったことで、最上義光は伊達政宗に援軍を送りました。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いと同じ時期に慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)が起こりました。西軍の上杉景勝が直江兼続を大将として東軍の最上領に侵攻します。上杉氏の大軍は最上氏の支城は開城していきますが、山形城攻略の前、長谷堂城の志村光安は篭城して戦います。鮭延秀綱らの攻撃で上泉泰綱を討ち取るなどの戦果を挙げ、長谷堂城を守り抜きました。伊達政宗は留守政景を援軍に送りました。上杉軍は関ヶ原の戦いでの西軍の敗北を知ると退却し、最上軍に追撃されますが、直江兼続は米沢への撤退に成功し、この時に最上光義は兜に銃弾を浴びたそうです。

関ヶ原の戦いで、最上義光は東軍に付き、戦後に57万石(山形全域と秋田の一部)の大大名となり、出羽山形藩の初代藩主となりました。最上光義は山形城を拡張し、城下町を整備しました。


戦国時代 山形城の勢力図

山形城周辺の勢力図(1600年)

山形城_1600年

山形城 縄張り

山形城_縄張り 山形城_縄張り2

正保城絵図 出羽国最上山形城絵図 正保元年(1644年)

「国立公文書館デジタルコレクションより」