津城 歴史 資料館
津城の歴史
1558〜70年頃に細野藤光が安濃津城を築いたことが津城の起源です。細野藤光は長野稙藤の三男で分家の細野家の家督を継ぎました。
伊勢の国人であった長野氏と細野氏は伊勢の支配権を巡って伊勢の国司で公家であった北畠氏と戦い、1558年(永禄元年)長野藤定(稙藤の子)が当主であった時に北畠具教に臣従し具教の次男の具藤を養子に迎えて家督を譲りました。
1568年(永禄11年)織田信長が伊勢に侵攻してくると、藤光の子の細野藤敦(安濃津城主)は当主であった長野具藤(長野城主)と対立して内紛が起こり、具藤を追放することとなり降伏して、織田信包(のぶかね)を新たな当主に迎えました。信包は津城の城郭を整備して小天守、五十天守を建てました。
1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長と信忠が亡くなると、信包は羽柴秀吉に臣従します。1590年(天正18年)小田原征伐で信包は北条氏政らの助命を嘆願を斡旋したために秀吉の怒りをかい、また、太閤検地によって加増されたにもかかわらず家臣としてのつとめを疎かにしたために1594年(文禄3年)改易され丹波国の柏原へ移ります。
1595年(文禄4年)豊臣秀吉の家臣の富田一白が津城に入城します。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで富田信高(一白の子)は東軍につき、西軍の毛利秀元、長宗我部盛親の3万の軍勢に津城を攻撃され寡兵で戦いますが、木食応其(もくじきおうご)の調停により開城します。木食応其は高野山において出家した僧侶で、豊臣秀吉の使僧として活躍しました。
1608年(慶長13年)信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が津城に入場します。高虎は城を輪郭式の城郭に大改修し城下町を整備しました。以後、明治維新まで津城は藤堂氏の居城となりました。
戦国時代 津城周辺の勢力図
津城周辺の勢力図(1582年)
本能寺の変のとき、織田信包は家督争いに参加する動きをしなかったそうです。羽柴秀吉に従い織田信孝と対立していきます。
津城 縄張り
〔日本古城絵図〕東海道之部(1).28 勢州安濃津城図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」