岡崎城 歴史 資料館
岡崎城の歴史
1452年(享徳元年)三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼が築城しました。
15世紀後半に松平氏が西郷氏を破り、1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備しました。
1535年(天文4年)松平清康は織田信光(織田信秀の弟)が守る守山城を攻めたとき、大手門付近で家臣に殺害されました(森山崩れ)。
松平広忠(徳川家康の父)が家督を継ぎますが、織田信秀による三河進攻で松平家は弱体化して今川家に従属し、1547年(天文16年)竹千代(後の徳川家康)は数え歳で6歳のとき今川氏へ人質として送られました。
1549年(天文18年)松平広忠が亡くなると、岡崎城は今川家の支城となり、山田景隆らが城代となります。
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、松平元康(徳川家康)は岡崎城を取り戻して今川家から独立し、翌年、織田信長と清州同盟を結びます。
1570年(元亀元年)徳川家康は本拠を浜松城に移し、子の松平信康が岡崎城に入ります。
松平信康は長篠の戦いで武功を挙げ将来を期待されましたが、織田信長から信康が不行状であることと信康の母の築山殿が武田勝頼に内通しているという疑いをかけらて1579年(天正7年)に切腹しました。その後、家康の重臣であった石川数正、本多重次らが岡崎城の城代となります。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の命により家康が関東に移封となると、豊臣の家臣の田中吉政が岡崎城に入ります。田中吉政は城を近世城郭に改修し城下町を整備しました。
1602年(慶長7年)徳川家の譜代の重臣の本多康重が入城し、以降、江戸幕府において岡崎城は家康誕生の城として重要視され、徳川家の譜代の大名が歴代の城主を務めました。
戦国時代 岡崎城周辺の勢力図
岡崎城周辺の勢力図(1560年)
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いのとき松平元康は三河勢を率いて前哨戦がおこなわれた大高城に兵糧を届け、織田の丸根砦、鷲津砦を攻撃しました。
今川義元が討ち取られると、松平元康は大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せ、前途を悲観して切腹しようとしましたが、住職に浄土宗の教えを説かれて切腹を思いとどまり、岡崎城に入城しました。
この時の浄土宗の教え厭離穢土欣求浄土(穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土をこい願う)を家康は軍旗にしました。
岡崎城 縄張り
〔日本古城絵図〕東海道之部(2).42 三州岡崎城図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」