新田金山城 歴史 資料館
新田金山城の歴史
新田金山城は、1469年(文明元年)新田一族であった岩松家純によって築城されました。
1528年(享禄元年)横瀬成繁・国繁親子が主君であった岩松守純から城を奪いました。 横瀬氏は将軍家と外交を行っており、1553年(天文22年)足利義輝から鉄砲が贈られたそうです。
1565年(永禄8年)由良成繁に改名しました。由良氏の領国でったる上野は、上杉氏、古河公方(足利氏)、北条氏、武田氏ら強大な勢力に囲まれていたため、外交により従属勢力を乗り換え生き残りをはかりました。
由良成繁は、1573年(天正元年)館林城(群馬県館林市)、柄杓山城(群馬県桐生市)を攻め落とし、翌年、嫡男の由良国繁に金山城を譲り柄杓山城に隠居して城下町を整備し鳳仙寺を建立しました。
1578年(天正6年)由良成繁が死ぬと由良国繁が家督を継ぎます。
1582年(天正10年)本能寺の変以降、北条氏は北関東まで勢力を伸ばし、独立性を保っていた由良氏の立場も危うくなります。
1584年(天正12年)北条氏の謀略により由良国繁は小田原城に監禁され、北条氏政は金山城を攻めて国繁の助命と引き換えに金山城を手に入れました。北条氏の攻撃に対して由良成繁の妻の妙印尼(当時71歳)が孫の由良貞繁を大将にして善戦したそうです。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、前田利家の攻撃を受けて金山城は無血落城し廃城となりました。このときも妙印尼(当時77歳)が由良貞繁を大将として前田利家に参陣して武功を挙げ、そのおかげで豊臣秀吉から常陸国牛久に所領を与えられ由良氏は滅亡を免れました。
戦国時代 新田金山城周辺の勢力図
新田金山城周辺の勢力図(1564年、第2次国府台合戦の後)
岩槻城の太田資正は第2次国府台合戦に敗れ、北条派の太田氏資(資正の嫡男)が留守の間に降伏したため、成田氏長や由良成繁を頼って岩槻城の奪還を図りますが失敗に終わります。第2次国府台合戦の勝利で北条氏は一気に上総まで進出します。