吉田郡山城 歴史 資料館
吉田郡山城の歴史
吉田郡山城の築城時期は不明です。南北朝時代頃に安芸毛利氏の祖である毛利時親が築いた砦や小さな城館が起源であると推測されています。
1523年(大永3年)毛利元就は分家の出身でしたが、重臣たちの推挙により27歳で毛利家の家督を継ぎました。分家の出身であったことや、毛利家の主君であった尼子経久の干渉により家臣団の統率に苦労しました。
1525年(大永5年)元就は尼子氏(尼子経久)との関係を解消し、大内義興に嫡男の毛利隆元を人質に差し出して従属しました。
1529年(享禄2年)尼子氏に通じていた高橋氏(高橋興光)を討伐して安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れ、戦国大名への道を開きます。
1540年(天文9年)吉田郡山城は尼子詮久(晴久)率いる3万の軍勢に攻められます。毛利軍は大内氏の援軍が来るまで持ちこたえて尼子軍を撤退させることに成功し、安芸国での勢力を強固なものにしました。
1542-43年(天文11-12年)毛利元就は嫡男の隆元とともに大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍しますが、尼子晴久に撃退されて大内軍は敗走し殿を務めた毛利軍は壊滅的な打撃を受けました。
1544年(天文13年)元就は三男の隆景を安芸、備後、瀬戸内海に勢力を持つ強力な水軍をかかえる竹原小早川氏の養子にし、1546年(天文15年)毛利家の家督を隆元に譲り、1547年(天文16年)次男の元春を安芸、石見に勢力を持つ吉川家の養子にして、毛利両川体制を構築して安芸の支配権を確立しました。
1551年(天文20年)大寧寺の変で、陶隆房(晴賢)の謀反により大内義隆が自害させられます。毛利元就は大内家の当主交代に同意し、陶晴賢とは盟友として誼を通じていましたが、毛利氏の勢力拡大を警戒した陶晴賢と、大内氏からの独立を画策する毛利氏の関係は次第に悪化します。
1553年(天文22年)大内氏に従属していた石見国の三本松城主の吉見正頼が陶氏への反発から反旗を翻します。大内義長と陶晴賢は毛利氏に援軍を要請しますが、援軍に賛成する元就に対して陶氏打倒を主張する隆元は援軍に反対し、毛利氏は大内氏から離反しました。
1554年(天文23年)3月、大内義長、陶晴賢が三本松の吉見正頼を攻めている間に、毛利氏は安芸の桜尾城など攻略して厳島も占領します。毛利氏と陶氏の攻防が激しくなると、大内氏、陶氏は吉見氏と和睦します。
1555年(天文24年)9月末、陶晴賢は2万余りの大軍を率いて厳島に進軍し宮尾城を攻めます。対する毛利軍は4千余りの兵で宮尾城の救援に向かいます。毛利元就は暴風雨を好機と捉えて陶軍に気付かれないように奇襲のために将兵を布陣します。本陣を奇襲された陶軍は総崩れとなり、陶晴賢は逃走中に自刃しました。
戦国時代 吉田郡山城周辺の勢力図
厳島の戦いの頃の吉田郡山城周辺の勢力図(1555年)
小早川隆景の家臣の乃美宗勝(のみむねかつ)は村上吉充(因島村上氏の第6代当主)と血縁関係にあり、厳島の戦いの時に、村上水軍との援軍の交渉にあたり、毛利軍の味方に引き入れることに成功します。