米沢城 歴史 資料館
米沢城の歴史
鎌倉時代、1238年(暦仁元年)頃に長井時広が築城したとされていますが、正確なことは分かっていないようです。
1548年(天文17年)伊達稙宗と長男の晴宗(伊達政宗の祖父)が争った天文の乱の後、伊達晴宗は本拠地を桑折西山城から米沢城に移しました。この頃に米沢城の城下町が整備されたそうです。
天文の乱が6年にも及んだために伊達氏の勢力は衰え、先代の伊達稙宗が婚姻関係や養子縁組によって従属させていた大崎氏、最上氏、葛西氏、蘆名氏、相馬氏は従属関係を解消します。伊達晴宗は混乱した家臣団を統率するために家臣たちに権限を移譲し、特に重臣の中野宗時が家中の実権を握るようになります。
1555年(弘治元年)伊達晴宗は室町幕府から奥州探題に任じられます。
奥州探題は室町幕府の役職の一つで、陸奥国(青森、岩手、宮城、福島)の統括を担っていました。奥州探題は代々、大崎氏が世襲していましたが、先代の伊達稙宗が山形に侵攻して羽州探題の最上義定に勝利したことや、将軍家との外交により左京大夫の官位を得たことなどにより、大崎氏と伊達氏の立場は逆転していました。
1564年(永禄7年)伊達輝宗は最上義守の娘の義姫を娶ります。
1565年(永禄8年)晴宗は家督を伊達輝宗に譲って杉目城(福島城)に隠居しました。
1567年(永禄10年)米沢城で伊達政宗が生まれます。
1570年(永禄13年)伊達輝宗は謀反の疑いで中野宗時と子の牧野久仲を追討しました。宗時の家臣であった遠藤基信は事前に謀反を知らせたことを賞されて輝宗に重用されます。輝宗は家中の実権を掌握して、新たに鬼庭良直(左月斎)を評定役に抜擢して重用します。
伊達輝宗は蘆名盛氏との同盟関係を継続し、南奥羽の紛争を調停し、勢力拡大を図ります。遠藤基信は外交手腕に優れ、織田信長、徳川家康、北条氏照、柴田勝家らと交渉を行い友好関係を築きます。また、片倉景綱を見い出して小姓に推挙しました。
1578年(天正6年)上杉謙信の死後に発生した御館の乱では蘆名盛氏と共に上杉景虎方として参戦し、1581年(天正9年)新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こすと、蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後へ介入します。
1583年(天正11年)天文の乱以降に相馬氏に奪われた丸森城を奪還し、翌年には金山城も攻略し、南奥羽への影響力を強固なものにしました。
1584年(天正12年)蘆名盛隆が家臣に殺害され、盛隆の子の亀王丸(生後1ヵ月)が当主になると、伊達輝宗は亀王丸の後見人となり、伊達政宗に伊達家の家督を譲りました。
伊達政宗が今までの越後介入の方針から一転して上杉景勝と和睦したことや、伊達輝宗が蘆名氏の家督相続に介入したこと、田村氏と大内氏の争いの仲介がうまく進まなかったことなどにより、蘆名氏、二本松氏と対立します。
1585年(天正13年)5月、伊達政宗は蘆名氏の当主交代を好機と考えて蘆名領に侵攻しますが関柴合戦で敗北します。8月、政宗への臣従を拒否した大内定綱の小手森城を攻めて、見せしめとして城兵の殺戮しました(小手森城の撫で斬り)。政宗は定綱と姻戚関係にあった二本松城主の二本松義継にも攻撃を加え、義継は輝宗の仲介で降伏しました。10月、二本松義継は宮森城での会談中に伊達輝宗を拉致し、伊達政宗の追っ手による一斉射撃で二本松義継と伊達輝宗は亡くなります。
伊達輝宗の死によって、伊達氏と周辺勢力との関係は悪化します。伊達政宗は弔い合戦として田村清顕、相馬義胤ととも二本松城を攻撃します。11月、佐竹義重と蘆名氏らの連合軍は二本松氏の救援のため進軍します。連合軍との兵力差で伊達政宗は劣勢となり、人取橋の戦いでは、政宗自身も銃弾を浴び、殿軍を引き受けた鬼庭左月斎は討ち取られました。政宗にとって幸運なことに、翌日、北条氏が佐竹氏の領土に侵攻してくるとの知らせが入ったため佐竹軍が撤退し、難を逃れました。
1586年(天正14年)4月、再び、伊達政宗は二本松城を攻撃して、7月に相馬義胤の仲介で二本松義綱は二本松城を開城し二本松氏は滅亡します。
1587年(天正15年)豊臣秀吉は惣無事令を発令して私的な戦いを禁止しますが、伊達政宗はこれを無視します。
1588年(天正16年)2月、北方の大崎氏の内紛に介入して大崎義隆を攻めますが、大崎義隆と最上義光の連合軍に敗れ(大崎合戦)、最上氏に伊達領の北部を奪われます。また、同じ時期に蘆名義広と相馬義胤の連合軍に伊達領の南部を攻撃されます。政宗は外交により最上氏、蘆名氏らと和議を成立させます。
1589年(天正17年)6月、摺上原の戦いで蘆名義広に勝利して黒川城を奪い居城とし、南奥州の支配を確立します。この戦いで蘆名氏は滅亡します。
1590年(天正18年)5月に、政宗は浅野長政から小田原参陣を催促され、小田原で秀吉に謁見して恭順しました。政宗は会津領を没収されますが伊達家の本領72万石を安堵されます。伊勢から会津に転封となった蒲生氏郷が黒川城へ入場し、政宗は居城を黒川城から再び米沢城に移します。
1591年(天正19年)一揆を扇動したと疑いをかけられた伊達政宗は岩出山城へ58万石の減転封となり、蒲生氏郷の重臣の蒲生郷安が米沢城主となり城を改修しました。
1598年(慶長3年)越後の春日山城から上杉景勝が会津に転封(120万石)となり鶴ヶ城(若松城)に入場し、直江兼続が米沢城に入城しました。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで西軍に付いたため上杉景勝は出羽の米沢に減封(30万石)となります。上杉景勝は初代米沢藩主となりました。
戦国時代 米沢城の勢力図
米沢城周辺の勢力図(1585年)
米沢城 縄張り
正保城絵図 出羽国米沢城絵図 正保元年(1644年)
「国立公文書館デジタルコレクションより」