館山城 歴史 資料館
館山城の歴史
1578年(天正6年)里見義弘が死去すると養子であった義頼と嫡男の梅王丸の間に家督と領土をめぐる対立が発生する。里見義頼は北条氏政の支援を受けて1580年(天正8年)上総国を制圧、梅王丸を出家させ里見氏の領国全てを継承する。また、同年に北条氏に対抗するため甲斐の武田勝頼と常陸の佐竹義重が同盟すると、里見氏も武田と同盟する。
1582年(天正10年)織田氏の甲州征伐により武田氏が滅び、義頼の後妻(北条氏政の妹・菊姫)が死去すると北条氏との争いが再燃する。 里見義頼は北条氏を撃退し、豊臣秀吉と外交を行い後ろ盾を得ようとした。本拠地の岡本城が北条氏に攻められ、支城の久留里城・佐貫城も危うくなったため、里見義頼は1580年(天正8年)館山城の築城を開始する。義頼は1587年(天正15年)に死去、里見義康が家督を相続する。
里見義康は、1590年(天正18年)小田原征伐で秀吉の怒りに触れ、上総・下総の所領を没収され、安房4万石に減封され、1591年(天正19年)に館山城に本拠を移した。
1600年慶長5年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、結城秀康の配下として宇都宮城を守備する。 1603年慶長5年(慶長8年)に死去し、家督は嫡男の里見忠義が相続する。
里見忠義は、1611年(慶長16年)老中大久保忠隣の孫娘を娶る。1614年(慶長19年)大久保忠隣が突然改易され、孫娘を娶っていたことから連座となり里見氏も改易となった。館山藩は取り潰しとなり、館山城は廃城となった。
戦国時代 館山城周辺の勢力図
豊臣秀吉の小田原征伐の前(1590年1月)
真里谷信高の祖先は甲斐武田氏の武田信満(甲斐守護)で武田信玄と同じ祖先です。