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武田氏館(武田神社) 歴史 資料館


武田氏館(武田神社)の歴史

武田信虎は川田館(山梨県甲府市川田町)を居館としていましたが、水害に弱いことや防衛上の理由から1519年(永正16年)に躑躅ヶ崎館に居館を移しました。

躑躅ヶ崎館を守備する支城として、1520年(永正17年)に北東にある積翠寺丸山に要害山城を、1523年(大永3年)に西にある湯ノ山に湯村山城を築城しました。

武田信虎は甲斐を統一しますが駿河の今川氏、相模の北条氏と緊張状態が続き、信虎は山内上杉氏(関東管領)、扇谷上杉氏と同盟して領土拡大を図ります。

1537年(天文6年)信虎の長女の定恵院が今川義元の正室となり甲駿同盟が成立します。同年に、1537年(天文6年)上杉朝興(扇谷上杉氏)が亡くなり上杉朝定が若くして家督を継ぐと、北条氏綱はそれに乗じて河越城を攻略し、上杉朝定は松山城へ逃れました。

1541年(天文10年)武田信虎は村上義清や諏訪頼重などと結んで信濃の小県郡(長野県上田市)へ侵攻(海野平の戦い)し、海野氏、根津氏、滋野氏、真田氏(真田幸隆)らに勝利します。戦いの後、信虎は娘婿の今川義元に会うために駿河へ向かいますが、武田晴信に甲斐国境を封鎖され甲斐を追放されてしまいます。

武田晴信は家督を奪うと信濃の諏訪頼重との同盟を破棄して信濃に侵攻します。1544年(天文13年)北条氏康と和睦、今川氏と北条氏の争いの調停を行い、1553年(天文22年)晴信の娘の黄梅院を北条氏政の正室として嫁がせます。

1553年(天文22年)までに晴信は北信濃を除く信濃を平定、1553年(天文22年)最初の川中島の戦いの翌年に甲相駿三国同盟が成立し、以降、1564年(永禄7年)にかけて長尾景虎(上杉謙信)と川中島で戦うこととなります。

1572年(元亀3年)武田信玄は徳川家康の領地である遠江、三河に侵攻し、三方ヶ原の戦いで家康に勝利しますが、1573年(元亀4年)陣中で病没しました。

家督を継いだ武田勝頼も躑躅ヶ崎館を居城としていましたが、1575年(天正3年)長篠の戦いでの敗北の後、武田勝頼は新府城を築き居城を移転しました。

1582年(天正10年)織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡し、織田家臣の河尻秀隆が躑躅ヶ崎で政務をとったとされ、同年の6月の本能寺の変以降は徳川氏の城となります。

1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐後の7月に徳川家康が関東へ移封となると、豊臣氏の家臣の居城となり徳川氏を牽制する拠点となりますが、江戸時代に入ると甲府城が政治、経済の中心となり躑躅ヶ崎は廃城となりました。


戦国時代 武田氏館周辺の勢力図

武田氏が信濃に侵攻する前(1540年頃)

武田氏館_1540年_武田信濃侵攻

武田氏館 縄張り

武田氏館_縄張り

「武田氏館 案内板より」