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大多喜城 歴史 資料館


大多喜城の歴史

1590年(天正18年)に豊臣秀吉が発した惣無事令に違反したとして、里見氏は上総国を没収され、同国は徳川家康の領地となる。家康は家臣の本多忠勝に領地を与え、大多喜城が築城された。

本多忠勝は里見氏の北上を阻止するため、3層4階の天守を持つ城郭へ改築を行い城下町を整備し、大多喜藩の拠点となった。

1600年(慶長5年)本多忠勝は関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の武将の監視役として家康本軍に従軍し、本戦でも僅かな手勢で多くの首級をあげた。この功績により、大多喜は次男の本多忠朝に別家5万石で与え、伊勢の桑名10万石に移封した。関が原の戦い後、忠勝と娘婿の真田信之は真田昌幸と真田信繁(幸村)の助命嘆願をおこない、信濃の上田領は信之に与えられました。

本多忠朝は国吉原、万喜原の新田開発を積極的に行いました。

1609年(慶長14年)ドン・ロドリゴ一行を乗せたスペイン船サン・フランシスコ号が航海中に難破し、上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護・歓待したことが、「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中に記されています。

1614年(慶長19年)忠朝は大坂冬の陣のとき酒を飲んでいたため敵の猛攻に遭って敗退し、徳川家康に咎められた。1615年(慶長20年)大坂冬の陣で汚名返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入して戦死してしまい、本多政朝が藩主となる。

本多政朝は1617年(元和3年)に播磨龍野藩5万石に移封され、阿部正次が藩主となる。

1617年(元和3年)阿部正次は相模国小田原藩に移封され、大多喜藩は一時的に廃藩となり城は荒廃した。以降、青山氏、阿部氏、稲垣氏、松平氏と藩主が代わり明治維新を迎える。


戦国時代 大多喜城周辺の勢力図

豊臣秀吉が天下統一し徳川家康が関東に移封となった頃(1591年頃)

大多喜城_1541年_徳川の関東移封

大須賀忠政は榊原康政の長男、内藤家長は祖父の代から松平氏(徳川氏)に仕えた譜代の家臣です。


大多喜城 縄張り

大多喜城_縄張り1

日本古城絵図 東山道之部 上総国大多喜城地絵図 〔江戸中期−末期〕

「国立国会図書館デジタルコレクションより」

城内は左から本丸、二の丸、三の丸が配置されている。絵図の右側の茶色の線は城下町・寺町の通りです。 三の丸の右上に大手門があり、大手門から大手通りが城下町に続いている。 城下町の南端、絵図の右下の川沿いに寺があり、おそらく、本多忠勝の墓所がある良玄寺であると思われる。