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大垣城 歴史 資料館


大垣城の歴史

1500年(明応9年)竹腰尚綱によって揖斐川東河岸にあった牛屋に築かれたと伝えらています。竹腰氏は美濃の豪族で、竹腰尚綱の孫の竹腰重直は斎藤道三に仕えました。

1559年(永禄2年)氏家直元(西美濃三人衆)が城主となり堀や土塁を整備しました。

1567年(永禄10年)大垣城の氏家直元、曽根城の稲葉良通、北方城の安藤守就ら西美濃三人衆は織田信長の稲葉山城攻めに内応し、氏家元直は織田氏の家臣となり卜全(ぼくぜん)と号しました。

氏家卜全は1570年(元亀元年)姉川の戦いや翌年の伊勢長島攻めで活躍しますが同年に本願寺勢力と共に信長に対抗していた六角氏に討ち取られ、家督を子の氏家直昌が継ぎました。

氏家直昌は1582年(天正10年)本能寺の変の後しばらくは織田信孝に仕えますが、次第に信孝と秀吉が対立すると羽柴秀吉に仕えます。

1583年(天正11年)氏家直昌が死去すると家督を弟の氏家行広が継ぎ移封となり、池田恒興が大垣城の城主となります。

1584年(天正12年)小牧長久手の戦いで恒興が戦死し子の池田輝政が大垣城を継ぎます。翌年、輝政が岐阜城主になると、一柳直末が大垣城の城主となりました。

1586年(天正13年)天正地震で城は大垣城が全壊焼失した後、一柳直末、伊藤祐盛らが改修して天守を築いたそうです。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのとき、石田三成が大垣城に入城し西軍の本拠地となりました。


戦国時代 大垣城周辺の勢力図

大垣城周辺の勢力図(1600年)

大垣城_1600年

関ヶ原の戦いのとき伊藤盛正は西軍に味方し、石田三成より大垣城を本陣にしたいとの要請に応じて、居城の大垣城を明け渡しました。

岐阜城の織田秀信は、織田信忠の長男の三法師です。

犬山城の石川貞清は豊臣秀吉に使番(戦場での伝令、使者など)として仕えた人物です。 沓掛城の川口宗勝は野武士であったときに木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕えて墨俣一夜城の築城に参加しました。


大垣城 縄張り

大垣城_縄張り1 大垣城_縄張り2

諸国城郭絵図 美濃国大垣城絵図 正保元年(1644年)

「国立公文書館デジタルアーカイブより」