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沼田城 歴史 資料館


沼田城の歴史

沼田城は、1532年(天文元年)沼田顕泰により築城されました。

沼田氏は上野守護で関東管領でもあった山内上杉家の上杉顕定に従属しており、上杉氏の重臣であった箕輪城主の長野業政の娘を妻に迎えていました。

1546年(天文15年)河越城の戦いで山内上杉家、扇谷上杉家、古河公方の連合軍が北条氏康に大敗すると、沼田顕泰は北条氏に従います。

1560年(永禄3年)長尾景虎が沼田城を攻め落とすと沼田顕泰は沼田の国人衆を率いる立場となったが、沼田城は長尾景虎の直属領となり沼田三人衆(上野家成、河田重親、松本景繁)が城代となりました。

1578年(天正6年)上杉謙信の死後、北条氏が沼田城を攻略し、猪俣邦憲、金子泰清が城代となります。同年、上杉景勝と武田勝頼の間で甲越同盟の成立し、1580年(天正8年)武田勝頼の命により真田昌幸が城代の泰清に調略を仕掛け、昌幸の叔父の矢沢頼綱が沼田城を攻め無血開城させました。沼田顕泰の子の沼田景義は北条氏と由良氏の支援により沼田城を奪い返そうとしますが、真田昌幸の謀略により金子泰清に殺害され沼田氏は滅亡しました。

1582年(天正10年)織田・徳川氏連合軍による甲州征伐(武田領侵攻)により武田氏が滅亡すると、上野国は滝川一益に与えられ家臣の滝川益重が城代となります。同年6月、本能寺の変により織田信長が亡くなると武田遺領をめぐる天正壬午の乱が発生し、沼田城は北条氏に降った真田昌幸の領地となりました。

1589年(天正17年)豊臣秀吉は北条氏(北条氏直)の従属の条件であった沼田領の割譲に合意して、沼田城は北条氏に引き渡され猪俣邦憲が再び城代となります。同年に猪俣邦憲が真田昌幸の名胡桃城を略奪したことがきっかけとなり、豊臣氏による小田原征伐が発生します。

1590年(天正18年)小田原征伐の後、沼田城は真田信幸の領地となります。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、真田信之は東軍につき、改易となった真田昌幸の上田領も継承します。この頃、沼田城に五層の天守を築いたそうです。

1615年(慶長20年)5月、大坂夏の陣の頃に、真田信之は上田城の三の丸に本拠を移し、長男の真田信吉が沼田城の城主となりました。


戦国時代 沼田城周辺の勢力図

沼田城周辺の勢力図(1541年)

沼田城_1541年

1541年(天文10年)北条氏綱が死去し北条氏康が家督を継ぎました。同年、武田信虎が信濃の小県群(上田)に侵攻しました。沼田顕泰は関東管領の上杉憲政に従っていました。


沼田城周辺の勢力図(1561年9月初め)

沼田城_1561年

1561年(永禄4年)3月、上杉謙信は関東管領に就任します。沼田顕泰は上杉謙信に従属します。


沼田城周辺の勢力図(1583年)

沼田城_1583年

1582年(天正10年)6月、本能寺の変により織田信長が亡くなります。沼田城は真田昌幸の領地となります。


沼田城 縄張り

沼田城_縄張り

正保城絵図 上野国沼田城絵図 正保元年(1644年)

「国立公文書館デジタルアーカイブより」