本佐倉城 歴史 資料館
本佐倉城の歴史
室町時代に起こった享徳の乱(1454-1483年(享徳3-文明14年))のとき1455年に千葉康胤は千葉氏宗家の当主であった千葉胤直父子を殺害し当主を自称しましたが、幕府に追討され戦死します。同年、次男の千葉輔胤が跡を継いで当主となりますが、東常縁の攻撃を受けて居城の亥鼻城を捨てて本佐倉に拠点を移しました。その後、築城の時期は不明ですが、千葉輔胤が本佐倉城を築城したとされ千葉家宗家の本拠地となりました。
1471年(文明3年)千葉輔胤が隠居すると千葉孝胤が当主となる。
1478-1479年(文明10-11年)幕府に千葉氏当主として認められた千葉自胤が太田道灌の支援を受け千葉孝胤を追討し、一時的に下総・上総の大半を制圧されますが、自胤の影響力が弱いこともあり下総において孝胤の支配が確立されていきます。
1532年(享禄5年)孝胤の孫の千葉昌胤は小弓公方(足利義明)に対抗するため長男の千葉利胤の正室に北条氏綱の娘を迎えて北条氏との関係を強化します。
1538年(天文7年)第一次国府台合戦で千葉昌胤は北条方に参戦して小弓公方の足利義明の戦死後に小弓城を奪います。
昌胤の死後、千葉利胤が当主の頃には北条氏の房総半島への進出が進み、次第に千葉氏は北条氏に臣従して行きます。
1546年(天文15年)河越城の戦いで千葉利胤は関東諸将で唯一北条方に参戦しました。
1590年(天正18年)小田原征伐後に千葉氏(第28代当主・千葉良胤のとき)は改易され、徳川氏の領地となり城は破棄され、城下に陣屋が建てられました。
1602年(慶長7年)松平忠輝が入場、1603年(慶長8年)松平忠輝の松代への移封後、 1610年(慶長15年)軍事上の必要から同地に封じられた小笠原吉次、土井利勝が本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれました。
1615年(元和元年)一国一城令により本佐倉城は破棄され、藩庁は佐倉城に移転しました。 本佐倉城の城下町は酒々井宿に移設され成田街道の宿場町になったと考えられています。
戦国時代 本佐倉城周辺の勢力図
享徳の乱が終わった後(1484年頃)
江戸城を築城したことで有名な太田道灌は扇谷上杉家の家宰で、享徳の乱、長尾景春の乱で活躍しました。太田資忠は道灌の弟、甥にあたる人物。享徳の乱では勢力図中の太田氏以外は全て足利成氏(古河公方)の勢力でした。