久留里城 歴史 資料館

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久留里城の歴史

1455年(康正元年)武田信長(上総武田氏)が上総国守護代となり、1456年(康正2年)に古久留里城を築城したとされています。
武田氏が弱体化すると里見氏が久留里を統治するようになりました。
1533年(天文2年)里見義堯は北条氏綱の支援を受けて正木時茂とともに当主の里見義豊に対してクーデターを起こし、義豊を殺害して家督を継承する。
1535年(天文4年)里見義堯が古久留里城を改修し久留里城を本拠地としました。 1538年(天文7年)第一次国府台合戦では足利義明(小弓公方)を擁立して真里谷氏と共に、北条氏と戦うが敗北し、一時的に安房に退去する。
1554年(天文23年)久留里城は北条綱成を主力とする二万の軍に包囲されるが、里見義堯・義弘はこれを撃退した。
1564年(永禄7年)第二次国府台合戦で里見義堯・義弘は北条氏に大敗し一時久留里城も陥落するが、安房にて軍勢を建て直し再び久留里城を奪還した。
1567年(永禄10年)三船山合戦にて佐貫城に侵攻した北条氏を撃退し、里見氏は房総での勢力を拡大した。
1575年(天正3年)里見義堯が死去すると、再び北条氏の侵攻が始まる。里見義弘は上杉氏、武田氏の支援を得られなくなったこともあり、 1577年(天正5年)北条氏政と和睦する(房相一和)。
1578年(天正6年)里見義弘が死去すると、家督争いを制した里見義頼が家督を継承し、義頼は北条氏政の支援を受けて1580年(天正8年)上総国を制圧。また、同年に北条氏に対抗するため甲斐の武田勝頼と常陸の佐竹義重が同盟すると、里見氏も武田と同盟する。
1582年(天正10年)織田氏により武田氏が滅び、義頼の後妻(北条氏政の妹・菊姫)が死去すると北条氏との争いが再燃する。 里見義頼は北条氏を撃退し、豊臣秀吉と外交を行い後ろ盾を得ようとした。
本拠地の岡本城が北条氏に攻められ、支城の久留里城・佐貫城も危うくなったため、里見義頼は1580年(天正8年)館山城の築城を開始する。里見義頼は1587年(天正15年)に死去し、里見義康が家督を相続する。
1590年(天正18年)豊臣秀吉による小田原征伐の際、里見義康は命令に従わず上総の所領を没収され館山城に本拠を移し、久留里城には徳川家康の家臣の大須賀忠政が入城します。 江戸時代の初期には久留里藩の藩庁となりますが、1679年(延宝7年)土屋忠直が藩主であったときに改易となり一時廃城となります。
1742年(寛保2年)黒田直純が城主となり、以降、黒田氏が久留里藩を統治し、明治維新を迎えます。

戦国時代 久留里城周辺の勢力図

第二次国府台合戦(1564年1月4日)
久留里城_1564年_第二次国府台合戦
第二次国府台合戦は江戸城の守将の太田康資が上杉謙信への寝返りを画策したことがきっかけで始まります。遠山綱景と富永直勝は江戸川を越えて国府台に攻め込みますが里見軍の反撃で戦死します。


関東・甲信越の城↑

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