春日山城 歴史 資料館
春日山城の歴史
1507年(永正4年)守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能(関東管領・上杉顕定の弟)を追放し、新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となりました。
1509年(永正6年)上杉顕定(関東管領)は報復のため大軍で越後に侵攻し、長尾為景は一時、越中(富山)に逃れました。翌年、為景は伊達尚宗らに援軍を要請して上杉顕定の軍勢に勝利し越後に戻ります。
1540年(天文9年)長尾為景が隠居し長尾晴景が家督を継ぎますが、晴景に不満をもっていた越後の国人が長尾景虎(晴景の弟)を擁立したため、1548年(天文17年)越後守護の上杉定実の調停により晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠居しました。
1550年(天文19年)上杉定実は跡継ぎのないまま死去したため、長尾景虎は越後守護を代行するよう室町幕府から命ぜられます。同年、坂戸城主の長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持ち反乱を起こしますが景虎に坂戸城を包囲されて鎮圧されます。
1553-64年(天文22-永禄7年)長尾景虎(上杉謙信)は川中島で武田信玄と合戦を行います(川中島の合戦一次〜五次)。
1553年(天文22年)長尾景虎は1度目の上洛を果たし、1559年(永禄2年)2度目の上洛の時に足利義輝(将軍)から管領並の待遇(上杉の七免許)を与えられました。
1560年(永禄3年)6月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後に、長尾景虎は三国峠(新潟と群馬の境にある峠)を越えて北条氏康を討伐するために出陣します。長野業正らの支援を受けて上野の北条方の城を攻略し、翌年に関東の諸将に参陣するよう号令して武蔵の城を支配下に置き相模に侵攻、2月に鎌倉を攻め落とします。北条氏は野戦は不利とみて、滝山城、河越城、玉縄城、小田原城に籠城します。3月に長尾景虎と関東諸将の連合軍は小田原城を包囲しますが、武田氏と今川氏が北条氏へ援軍を送ったことと長期戦での疲弊のため越後へ引き上げることになります。この時期に、長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就任して上杉政虎に改名し山内上杉家の家督を相続します。
上杉謙信は、景虎、政虎、輝虎と改名し1570年(元亀元年)法号(仏門に入った者に授けられる名)として不識庵謙信を称したため上杉謙信と呼ばれています。
上杉謙信は関東に侵攻してくる北条氏、北信濃に侵攻してくる武田氏、越中守護の神保氏や一向一揆らを討伐するために各地を転戦します。
1576年(天正4年)上杉謙信は越中、能登を平定し、1577年(天正5年)手取川の戦いで織田軍に勝利します。謙信は次の遠征の準備を進めますが、1578年(天正6年)3月、春日山城にて急死しました。
謙信が跡継ぎを指名しないまま急死したため、家督相続をめぐって謙信の養子の上杉景勝(長尾政景の次男)と上杉景虎(北条氏康の七男)との間で争いが起こります(御館の乱)。景虎は北条氏と武田氏の後ろ盾を得て優勢でしたが、景勝が先に春日山城を掌握し武田勝頼に有利な和睦交渉を締結し、次第に家中の支持を集めたため、景勝が勝利して家督を継ぎます。
1582年(天正10年)上杉軍は魚津城の戦いで織田軍に敗れ、越中の大半を織田軍に奪われます。上杉景勝は窮地に陥りますが、6月に本能寺の変が起こり、織田軍は撤退します。
その後、上杉景勝は羽柴秀吉と好を通じて豊臣家に従い、豊臣家の大老となり、1598年(慶長3年)豊臣秀吉の命により会津120万石に加増移封されます。
春日山城には堀秀治(堀秀政の長男)が入場します。堀氏は春日山城で政務を行うことが不便であるため、1607年(慶長12年)に直江津港近くに福島城を築城して拠点を移し、春日山城は廃城となりました。
戦国時代 春日山城周辺の勢力図
春日山城周辺の勢力図(1541年)
1540年、長尾為景が隠居し長尾晴景が家督を相続。晴景は越後国内の安定を図るために領内の国人に友好的な政策を行います。
春日山城周辺の勢力図(1561年9月初め)
1561年9月初めは、川中島の戦いの第四次合戦の最中になります。上杉政虎は柿崎景家を先鋒に車懸りの陣形で武田軍を攻撃、武田軍は上杉軍に押されて総崩れとなり信玄の弟の武田信繁、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死にします。
春日山城周辺の勢力図(1583年)
1583年(天正11年)4月、羽柴秀吉は賤ヶ岳で柴田勝家と戦います。上杉景勝は秀吉から越中への侵攻を命ぜられ佐々成政と対峙します。