姫路城 歴史 資料館
姫路城の歴史
南北朝時代の1346年に赤松貞範によって築城されました。
1469年(文明元年)赤松政則(第9代当主)は隣国の但馬国を本拠地とする山名氏に備えるため置塩城を築いて本拠地を移し、小寺豊職が姫路城の城代となりました。
1491年(延徳3年)小寺政隆(豊職の子)が姫路城の城代になり御着城の築城を開始し、1519年(永正16年)小寺政隆は御着城に本拠地を移し小寺則職(政隆の子)が姫路城の城代になりました。姫路城は御着城の支城でした。
1545年(天文14年)小寺則職は御着城に移り家臣の黒田重隆が姫路城の城代となり、黒田重隆と子の職隆は姫路城を拡張しました。
1567年(永禄10年)職隆の子の黒田孝高(官兵衛、如水)が姫路城の城代となります。この頃には、小寺氏の主君であった赤松氏の守護大名としての力はなくなっていました。
羽柴秀吉による中国攻めが開始される2年ほど前、1575年(天正3年)黒田孝高は織田氏の勢力伸長を見抜き、主君の小寺政職に織田氏に臣従することを進言して先に秀吉の取次により岐阜城で信長に謁見し名刀"圧切長谷部"を授かります。翌年には、小寺政職も京都で信長に謁見することとなります。
1578-80年(天正6-8年)織田氏が別所長治の三木城を攻めた三木合戦の間、1578年9月黒田孝高は備前国の戦国大名の宇喜多直家を調略することに成功、同年11月、有岡城で信長に反旗を翻した荒木村重の説得に向かいますが村重によって1年余りのあいだ牢に幽閉されてしまいます。小寺政職は村重に呼応して信長に背き織田軍と戦いますが敗北して毛利氏へ逃亡しました。また、三木合戦の最中に竹中重治(半兵衛)が陣中で病没しています。
1580年(天正8年)羽柴秀吉が播磨を平定すると黒田孝高は姫路城を秀吉に献上し、秀吉は姫路城を改修して3層の天守を築き、城の南部に大規模な城下町を作りました。
1600年(慶長5年)池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により徳川家康から播磨国を与えられます。池田輝政は秀吉が作った天守を解体し、5重6階の大天守と3重の小天守3基、その各天守の間を2重の渡櫓で結ぶ連立式天守を築きました。
戦国時代 姫路城周辺の勢力図
黒田孝高が姫路城の城代となった頃の姫路城周辺の勢力図(1567年)
1567年(永禄10年)黒田孝高は家督と家老職を継ぎ姫路城代となります。1569年(永禄12年)赤松政秀と赤松義祐の争いがきっかけとなり、姫路城は赤松政秀の軍勢3000に攻められます。黒田孝高の軍勢はわずか300程度でしたが、当時の姫路城は小さな城であり籠城をあきらめ、野戦にて赤松政秀軍を撃退しました。
姫路城 縄張り
〔日本古城絵図〕山陽道之部.262 播磨姫路城絵図
「国立国会図書館デジタルコレクションより」