八上城 歴史 資料館
八上城の歴史
1508年(永正5年)波多野元清によって築城されました。
波多野元清は周囲の豪族討伐に成功し、細川政元暗殺後の細川澄元と細川高国の争いでは高国を支持します。しかし、弟の香西元盛が細川高国に殺害されると細川晴元方に転じて高国と戦います。
次代の波多野秀忠も最初は晴元を支持していましたが三好元長との間に軋轢が生じ細川高国の後継者の晴国の陣営へ寝返えります。1535年(天文4年)晴国の勢力が衰えると晴元方へ帰参して三好氏とも友好関係を築いて丹波守護と呼ばれるようになります。
次代の波多野元秀のとき三好長慶と対立し、1557年(弘治3年)八上城は松永久秀に奪われますが、1564年(永禄7年)三好長慶が飯盛山城で病死し三好氏の勢力が弱まると、1566年(永禄9年)元秀は八上城を奪い返します。
1575年(天正3年)明智光秀の丹波攻略が開始され、波多野秀治は赤井直正や毛利氏の支援を受けて抵抗しますが、1578年(天正6年)3月から1579年(天正7年)6月に及ぶ籠城戦の末に降伏して波多野氏は滅亡しました。
戦国時代 八上城周辺の勢力図
明智光秀の丹波攻略開始時の八上城周辺の勢力図(1575年)
赤井直正も波多野秀治も一度は織田信長に臣従しましたが、信長と足利義昭の関係が悪化すると次第に信長包囲網側の勢力に転じます。直正も秀治も義昭を擁立した信長に形式的に従っていたと考えられています。