岡山城 歴史 資料館
岡山城の歴史
南北朝時代、1346-69年(正平年間)伯耆国の豪族であった名和氏の一族の上神高直が築いた城が岡山城の起源とされています。
戦国時代、備前金川城の松田氏の家臣の金光宗高が岡山城の元となる石山城の城主でした。
1562年(永禄5年)松田氏は宇喜多直家の和議を受け入れて浦上宗景と和睦します。
1564年(永禄7年)浦上氏らの備中侵攻を察知した三村家親に石山城を攻撃されて金光宗高は三村家親に従属します。
1566年(永禄9年)三村家親は美作の興善寺で宇喜多直家の刺客に短筒の火縄銃で撃たれて亡くなります。
家督を相続した三村元親は、宇喜多直家への復讐のため、1567年(永禄10年)2万の兵で備前に侵攻しますが、5千の宇喜多勢に大敗しました(明善寺合戦)。金光宗高は宇喜多直家の家臣となります。
1570年(元亀元年)岡山の地を欲していた宇喜多直家は金光宗高が毛利氏と内通していると言い掛かりを付けて金光宗高を謀殺して城を奪い居城としました。宇喜多直家は城を改築して城下町に商人を呼び寄せて、北方の山裾にあった西国街道を城の南側に移転させました。
1574年(天正2年)毛利輝元は宇喜多氏が浦上氏と敵対したことや、織田氏の侵攻に備えるために、小早川隆景を介して敵対していた宇喜多氏と同盟関係を結びます。宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は毛利氏を離反して織田方に付きました。
1575年(天正3年)宇喜多直家は浦上宗景の腹心であった明石行雄(明石全登の父)らを内応させて天神山城は陥落し浦上宗景を播磨へ退けました。(天神山城の戦い)
織田信長の命で羽柴秀吉が中国に侵攻してくると、当初は毛利氏と共に戦いますが、1579年(天正7年)織田信長に臣従しました。
1581年(天正9年)毛利氏との戦いのさなかに宇喜多直家は岡山城で病死し、家督を継いだ宇喜多秀家(直家の子)は織田信長から所領を安堵されました。
1582年(天正10年)宇喜多秀家は羽柴秀吉の元で備中高松城攻めに協力します。秀家の叔父の宇喜多忠家は黒田孝高の水攻めのための築堤工事に協力しました。
宇喜多秀家は豊臣秀吉の猶子となり豊臣姓と羽柴氏を与えらて秀吉の一門衆となり、1590-97年(天正18-慶長2年)岡山城を大大名にふさわしい近代城郭へと大改修しました。その後、秀家は豊臣政権下で五大老に任じられますが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため八丈島へ配流となりました。
戦国時代 岡山城周辺の勢力図
天神山城の戦い後の岡山城周辺の勢力図(1575年)
天神山城の戦いの結果、宇喜多直家は備前全域、美作東部、播磨西部などに大きく所領を拡大しました。
岡山城 縄張り
〔正保城絵図〕備前国岡山城絵図
「国立公文書館デジタルアーカイブより」