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長篠城 歴史 資料館


長篠城の歴史

1508年(永正5年)今川氏親の家臣であった菅沼元成が築城しました。

戦国時代、武田信玄が三河に侵攻してくると、菅沼正貞(長篠城主、長篠菅沼氏)は徳川家康に従属していましたが、1571年(元亀2年)本家の菅沼定忠(田峯城主、田峯菅沼氏)が武田信玄に寝返ったことと、秋山虎繁(信友)の懐柔策により武田氏に臣従し山県昌景の与力に組み込まれました。

1573年(元亀4年)武田信玄の病が悪化し西上作戦が切り上げられると、徳川家康は長篠城を攻撃し菅沼正貞は城を開け渡しました。

武田信玄の西上作戦により徳川氏から武田氏に寝返っていた奥平貞能は再び徳川氏に臣従し長篠城の城主となりました。

1575年(天正3年)5月、武田勝頼は1万5000の大軍で長篠城を包囲しました。長篠城の守備兵は500人程度であったそうです。奥平貞昌(貞能の子)の家臣であった鳥居強右衛門は岡崎への援軍要請の使者として城を出て、織田信長と徳川家康の援軍が長篠城に出陣することを貞昌に伝えるために長篠城へ戻る途中で武田軍に捕らえられて磔にされ処刑されました。奥平貞昌は援軍到着までの二日間、長篠城を守りました。

その後、織田信長と徳川家康の連合軍は設楽原で武田勝頼に勝利します。長篠城は武田軍の攻撃により大きな被害を受けたため、奥平信昌(貞昌から改名)は新たに新城城を築城し、長篠城は廃城となりました。


戦国時代 長篠城周辺の勢力図

長篠城周辺の勢力図(1575年5月)

長篠城_1575年5月

1572年(元亀3年)12月、三方ヶ原の戦いで徳川軍は敗北し戦線を維持できなくなりました。徳川家康にとっては運良く1573年(元亀4年)5月に武田信玄が亡くなると、徳川家康は長篠城を攻略して武田軍の攻撃に備えて城を改修しました。


長篠合戦図屏風

長篠の戦いを描いた屏風は全部で12個あるそうで、名古屋市博物館、犬山城白帝文庫、徳川美術館、東京国立博物館、大阪城天守閣、松浦史料博物館、豊田郷土資料館、長浜城歴史博物館、中津城が所蔵しています。

Google Art & Cultureで公開の 徳川美術館所蔵 長篠合戦図屏風