黒井城 歴史 資料館
黒井城の歴史
1335年(建武2年)赤松貞範は中先代の乱の平定のため関東に向かう足利尊氏軍に参加して新田義貞軍と戦って武功を挙げて丹波国春日部に所領を与えられました。この頃に、黒井城を築城したと考えられています。
赤井直正は1529年(享禄2年)赤井時家の次男として生まれ、黒井城の城主であった萩野氏の養子となっていたそうです。1554年(天文23年)赤井直正は荻野秋清へ年初の挨拶に黒井城に出向いて秋清を暗殺して黒井城を奪いました。
1557年(弘治3年)直正の兄である赤井家清が三好氏家臣の松永長頼(松永久秀の弟、内藤宗勝)との戦いで負った傷がもとで死去すると、赤井直正は甥の忠家の後見人となり赤井氏を率います。1565年(永禄8年)赤井直正は横山城(後の福知山城)の塩見頼勝を攻め、救援に駆けつけた内藤宗勝を討ち取りました。
織田信長が上洛し三好氏の勢力が衰退した後、1570年(永禄13年)赤井直正は忠家と共に織田信長に臣従して所領を安堵されますが、但馬国から丹波国へ攻めてきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏の竹田城を占拠したために祐豊が信長に救援を求めて、赤井直正は織田信長と敵対関係となってしまいます。
1575年(天正3年)明智光秀の丹波攻略が開始され、黒井城は光秀に包囲されますが、赤井直正は波多野秀治を寝返らせて光秀軍の背後を攻撃させて、直正が勝利します。
赤井直正は吉川元春に援軍を要請しますが援軍が到着しないまま、1577年(天正5年)明智光秀は細川藤孝、細川忠興の増援を得て再び丹波攻略を開始し、翌年、赤井直正が病死、籠城戦の末に八上城が降伏して波多野氏が滅亡すると、1579年(天正7年)8月、黒井城も落城し光秀の丹波攻略は完了しました。
丹波平定後、明智光秀の重臣の斎藤利三が城主となりますが山崎の合戦で敗れ死去し、1582年(天正10年)羽柴秀吉の家臣であった堀尾吉晴が城主となりました。斎藤利三や堀尾吉晴が城主であった頃に石垣が整備されたそうです。
戦国時代 黒井城周辺の勢力図
明智光秀の丹波攻略開始時の八上城周辺の勢力図(1575年)
丹波には足利義昭に味方する者が多く、京都の安定化を図るためにも丹波の攻略が重要でした。 光秀は黒井城を包囲しますが、1576年(天正4年)1月、八上城の波多野秀治の裏切りにより敗走しました。同年の11月に光秀の正室の煕子(ひろこ)が病死しました。