北ノ庄城(福井城) 歴史 資料館
北ノ庄城(福井城)の歴史
織田信長が朝倉氏を滅ぼした後、越前は柴田勝家に与えられ、1575年(天正3年)北ノ庄城を築城しました。
1582年(天正10年)6月、本能寺の変で織田信長、織田信忠が亡くなり、山崎の合戦で羽柴秀吉が明智光秀を討ち取ります。6月末に、織田家の家督相続について清須会議が開かれ、信長の三男の織田信孝を推す柴田勝家と、信忠の嫡男の三法師(織田秀信)を推す羽柴秀吉が対立します。
12月、羽柴秀吉は大軍を率いて、清須会議で柴田勝家に割譲し柴田勝豊(勝家の養子)が城主となっていた長浜城を奪い、岐阜城の織田信孝も降伏させます。
1583年(天正11年)3月、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家、金森長近らとともに軍勢を率いて近江に布陣します。羽柴秀吉は伊勢の滝川一益、美濃の織田信孝と対峙しますが、1583年(天正11年)4月、長浜城の北にある大岩山砦が佐久間盛政に攻められ陥落したことを聞くと、柴田軍との雌雄を決する好機と判断して、岐阜城へ攻めるために滞在していた大垣城から長浜へ進軍(美濃大返し)しました。佐久間盛政と激戦(賤ヶ岳の戦い)になりますが、前田利家が戦線離脱すると金森長近も退却して柴田軍は総崩れとなり越前へ退却しました。
その後、北ノ庄城の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、妻の市(織田信長の妹)とともに自害し、北ノ庄城は焼失しました。
関ヶ原の戦いの功績により結城秀康が越前を拝領し、1601年(慶長6年)現在遺構が残っている福井城を築城しました。
戦国時代 北ノ庄城(福井城)の勢力図
北ノ庄城周辺の勢力図 賤ヶ岳の戦いの前(1583年3月)
福井城 縄張り
日本古城絵図 北陸道之部(1).222 越前福井城之図 江戸中期−末期
「国立国会図書館デジタルコレクションより」